みよし よしつぐ

1549-1573 享年25歳。

■通称:熊王丸、孫六郎、義詰、十河重存、重好、義存、義重、左京大夫

1549年天文18年、三好長慶の実弟・”鬼十河”と呼ばれた剛勇・十河一存の子として生まれる。はじめ、十河姓を名乗り、十河重存と称した。

1561年永禄4年、父・一存が休止すると、重存は幼少のため、伯父の三好長慶が十河家の仕置きを行い、十河家の重臣と乳母たちに重存を補佐・養育するよう命じている。

1563年永禄6年8月、三好長慶の嫡子にして、三好本家の御曹司だった従兄の三好義興が早世したため、重存は、急遽、長慶の養子に迎えられ、三好姓を与えられ、義存と称した。

長慶の後継者候補には、他にも3人いた。

長慶の実弟・安宅冬康、冬康の子の信康、さらに長弟の三好実休には3人の息子たちがいた。

これら候補を選ばず、十河家の一人息子であった義存をわざわざ三好本家の後継者に任命したのには、血筋が関係していた。

九条家の養女を娶っていた十河一存。この九条家は、近衛家と対立しており、三好家は、九条家を足がかりに京都の勢力を伸ばそうとしていた。

近衛家は、当時、隆盛を極めており、足利義晴、足利義輝の2代に渡って、室町幕府将軍の正室を出していた。近衛家追い落としを狙う九条家は、三好家と結んで、逆襲を果たそうとする。長慶もその流れに乗っていたが、義興が早々に没してしまったため、やむなく、九条家と結びのある縁者を三好家の跡取りに据えたのであった。

この長慶の処置により、十河家は、実休の次男・存保を養子として迎え、十河家の立て直しを図っている。

1563年永禄7年6月22日、三好義存は、三好長逸や松永久通ら4千を従えて、上洛すると、足利義輝との謁見を果たす。謁見の場にて、三好家の家督相続の許しを得ている。

跡取りの見事な門出を見届けた長慶は、重病のため、京都を離れ、河内の飯盛山城へもどり、同年7月に没した。

義存の後見役として、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が勤め、家宰として家中の切り盛りは、松永久秀が勤めた。

三好本家の家督相続として、長年、期待されてきた三好義興の急死は、三好家に暗い影を落としていた。さらに三好家中を支える縁者であるはずの安宅冬康を粛清するなど、三好家の屋台骨は、弱体化していた。

義存はまだ、実績もない若輩者として、当主を勤めざるを得ず、海千山千の松永久秀や我の強い三好三人衆をうまくまとめ上げることは、不可能に等しかった。

1565年永禄8年5月1日、義存は、義輝から「義」の一字を賜り、義重と改名している。義輝の奏請により、義重は左京大夫に任官された。

義輝の図らいを義重は、一向に恩義に感ぜず、同年5月18日、義重は、三好三人衆や松永久通らと共に1万もの軍勢を率いて、京へ上ると、翌日、突如として二条御所を襲撃。

足利義輝を討ち果たした。

三好軍のこの強襲撃を誰も警戒するものはなく、まさかの二条御所討ち入りであった。

義輝暗殺を成し遂げたあと、義重は、すぐに義継と改名している。義輝を亡き者にして、自ら足利幕府の最高権力者にのし上がろうという強い意志表明であった。

将軍空位の状態の中、三好三人衆と松永久秀が対立する。義継は、三好三人衆に担がれ、飯盛山城へ入る。

さらに河内高屋城へと移り、久秀軍と戦う。

三好三人衆主導の下、三好家の本国・阿波の地から足利義栄を呼び寄せ、14代将軍に擁立しようという動きを起こす。

義栄と共に篠原長房が上洛すると三好三人衆と結託して、将軍擁立を進めていく。義継は完全に蚊帳の外に置かれ、行く末を案じた家臣たちの勧めを受けて、義継は、手勢を率いて高屋城を出陣すると見せかけて、松永久秀の陣営と逃亡した。

1567年10月10日、義継は、大和の地にて、筒井順慶と結んだ三好三人衆と交戦。東大寺大仏殿が消失する合戦となったが、この戦いで松永久秀が勝利し、義継は、三好本家の体面を保った。

1568年永禄11年、織田信長が足利義昭を奉じて、京都へ上洛を果たすと、三好義継、松永久秀は、敵対する三好三人衆が擁立している足利義栄の対抗馬がやってきたと喜び、織田方に属し協力した。

織田信長は、降ってきた義継を採用し、河内北半分と若江城の領有を安堵した。

織田信長に抵抗した三好三人衆は、居城を落とされ、本国の阿波へと逃亡した。足利義栄は、京都に入ることもできず、急死した。

1569年永禄12年、1月、阿波から畿内へと上陸した三好三人衆が、京都の足利義昭を強襲した。義継は、急遽、畿内の織田軍と連合して、三人衆を迎え撃ち(本圀寺の変)、撃退している。

同年3月、義継は、織田信長の仲介を得て、足利義昭の妹を娶る。

その後も、しばらくは三好三人衆など畿内の反信長勢力に対して、義継は、松永久秀と連携を図りながら、織田軍に協力し、戦った(野田城・福島城の戦いなど)。

しかし、1571年元亀2年、義継は、松永久秀の誘いに乗り、信長に反逆した。信長包囲網が形成され、義継もその策謀に参画したのであった。

最も台風の目となったのは、武田信玄であった。信玄上洛の報せを受けての蜂起であった。1572年元亀3年、義継は、織田方の畠山昭高や細川昭元(いずれも信長の妹婿)と河内・摂津方面で戦い、これに勝利している。

1573年天正元年4月、信長包囲網の最大の要であった武田信玄が病没すると、信長包囲網は瓦解始める。織田軍の反撃が始まり、同年7月には、義継の義兄・足利義昭が京都から追放されてしまう。あっさりと室町幕府は滅んだのであった。

義継は、追放され路頭に迷う足利義昭を若江城に庇護した。このため、信長の怒りを買い、同年11月、信長の命を受けた佐久間信盛の軍勢が若江城に攻め込んでくる。義昭はすぐさま堺へと避難している。

若江三人衆と呼ばれた重臣たちも、義継を裏切ったため、若江城はあっさりと落城した。義継は妻子とともに自害して果てた。

義継の首は、すぐさま信長の下へと届けられたという。

太田牛一著『信長公記』には、義継は妻子を刺殺した後、城外へ打って出て、多くの敵をなぎ倒した末、力尽きると、腹を十文字にかき切って果てたと記している。その最期は「比類なき御働き、哀れなる(感動する)有様なり」と賞賛されている。

三好三人衆は、信長の前に散々に敗れ去り、壊滅状態となって、畿内・四国へと落ち延びた。松永久秀は、信長に降伏して、助命され、再度仕えたが、再び信長に反旗を翻し、最期は壮絶爆死す。

三好家系図 京都小笠原家の長興から派生した三好家は、
戦国乱世を経て、西国の雄へとのし上がって行く。

三好家系図<拡大図>