まつなが ひさひで

1508-1577 享年70歳。

■通称:道意、霜台、弾正、従四位下、弾正忠、山城守、弾正少弼

久秀の出自は定かではない。阿波国、山城国、摂津国などの土豪出身など諸説ある。近年は摂津国五百住の土豪出身との説が大きくなっている。

三好長慶に仕え、その知勇を見込まれ、重用され、三好家の執事として権勢を振るった。

松永久秀の抜擢は、戦国の時代においては、さほど珍しいことではない。能吏を重用することこそ、戦国乱世を生き抜くためには、必要な措置であった。

上杉景勝は、樋口兼続に上杉家重臣・直江景綱の名蹟を継がせ、上杉家の宰相として辣腕を奮っている。

北条氏綱は、福島綱成に北条の名字を与え、一門に列して、その才覚を存分に発揮させた。

三好家もまた、上に下にとせっつかれる時代にあって、松永久秀のような権謀術数に秀で、他の圧倒する度胸と武略、戦略を兼ね備えた人物をフルに活用することは、英断と言えた。

1549年天文18年、三好長慶は、細川晴元、室町幕府13代将軍・足利義輝らを近江国へ追放し、京都を占拠しあt.久秀は、三好長逸とともに公家や寺社などの諸勢力との折衝に当たった。

三好長慶は、上洛を果たすと、松永久秀を家宰に任じ、大役を勤めさせている。

畿内ではまだまだ、諸勢力が渦巻いており、決して三好の天下とは定まらなかった。1551年天文20年、等持院に攻め込んできた細川晴元方の三好政勝、香西元成らの軍勢に対し、久秀は弟の長賴とともに迎え撃ち、これを打ち破っている。相国寺の戦い。

1553年天文22年、久秀は、摂津滝山城主に任じられる。

同年9月、久秀は弟・長賴とともに丹波国・波多野秀親が籠もる数掛山城を攻めた。しかし、波多野氏援軍に駆けつけた三好政勝、香西元成らの軍勢に背後から奇襲を受け、久秀は惨敗を喫した。

1569年永禄11年9月、足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長に対して、久秀は、上洛戦に協力した。久秀は、当初は信長の同盟者としての立場にあった。

10月に信長に謁見した久秀は、人質と天下の名茶器と呼ばれた「九十九髪茄子」を差し出した。

信長は久秀の力量を見極めて、大和一国の支配を認めた。

一方で、三好三人衆は、信長に抵抗したが、9月には畿内から駆逐された。

14代将軍・足利義栄も上洛を果たせずに急死した。

足利義昭が15代将軍になると、久秀は三好義継と共に相伴衆や御供衆に任じられ、幕臣として京都にて活動している。

1577年天正5年、久秀は、越後の上杉謙信、中国の毛利輝元、摂津の石山本願寺などと結んで、反信長包囲網を築く。

本願寺攻めから勝手に離脱し、信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり、信長と対決姿勢を鮮明にした。

信長は松井友閑を派遣し、謀反の理由を問いただそうとしたが、久秀は使者にも会わず、追い返している。

信長は、嫡男・織田信忠を総大将とし、大和国の豪族・筒井氏を主力として、大軍で攻め込んだ。

佐久間信盛は、信貴山城を包囲する一方で、名茶器・古天明平蜘蛛の茶釜を差し出すよう求めたが、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答した。

久秀は天守もろとも、爆薬にて爆発させて、爆死した。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
35mm original