あしかが よしあき

1537-1597 享年61歳。

■通称:千歳丸、覚慶、義秋、昌山道休、従五位下・左馬頭、参議・左近衛中将、第15代征夷大将軍、従三位・権大納言、准三后

室町幕府第15代将軍。在職は1568年永禄11年~1588年天正16年まで。

父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。

第13代将軍・足利義輝は同母兄。

足利将軍家に生まれ、家督相続を受けない子として、慣例として義昭も違わず、仏門に入った。覚慶と称し、一乗院門跡となった。

しかし、時代は風雲急を告げることになる。兄・義輝が三好三人衆らに突如、強襲され、幕府再建の道半ばにして、横死した。

覚慶は、三淵藤英、細川藤孝ら幕臣の援助を受けて、奈良から脱し、還俗して義秋と称した。

兄・義輝の悲願だった室町幕府の再建に向けて、義秋もまた、将軍となり、天下に号令をかけようと夢見た。

始め、越前・朝倉義景を頼ったが、野心の薄い義景では、上洛は果たせず。

義秋は、美濃を手に入れ、急成長著しい織田信長に我が身の将来を託した。

織田信長は、兵農分離を成し、戦闘専門の兵団を組織し、京への大規模な上洛戦を展開。周辺諸侯を降伏・帰属させて、義秋を第15代将軍に就任させた。

始めは信長を父とも尊崇して、頼みとしていたが、義昭の所業を快く思わない信長は、はばかることなく諫言し、楯突く者は容赦なく罰し、義昭の自由を拘束した。

義昭は徐々に反信長勢力と誼を通じるようになり、信長包囲網を組織するまでになる。

武田信玄や朝倉義景、浅井長政、武僧の比叡山延暦寺や摂津の石山本願寺、中国の毛利輝元、紀伊の一向衆、伊勢の長島一向衆など義昭を頂点とする包囲網は、着実に信長を窮地に陥れた。

しかし、武田信玄の急死、浅井・朝倉の滅亡と立て続けに有望勢力が姿を消したため、義昭はついに信長に京より追放処分を受ける。

行き場を失った義昭は毛利輝元を頼りに都落ちした。

本能寺の変後も将軍職に執着して在職し続けたが、豊臣政権が盤石なものとなり、天下統一も目前となる時勢を観て、ついに将軍職を辞した。

豊臣秀吉より、山城国槇島に1万石の所領を与えられ、大名として優遇を受けた。

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