原 昌胤
はら まさたね
1520?-1585?
享年66?歳。
原昌俊の子として生まれる。
信虎時代から侍大将として活躍す。
信玄時代には、120騎持ちの武断派に列す。
鬼美濃で知られる猛将・原美濃守虎胤とは別系。
1549年(天文18年)、父・昌俊が脳溢血にて没すと、家督を相続す。
妻は勝沼五郎信友の娘。
陣取りの名人だった父・昌俊と同様に昌胤もまた、陣取りの名手となった。
跡部勝資と共に西上野衆に対し、奏者を務め、国衆や寺社への取次を行った。
1575年(天正3年)5月、長篠合戦にて、戦死す。昌胤には昌栄、昌弘、貞胤と子息があり、家督は嫡男昌栄が継ぐ。
その後、昌栄は1580年(天正8年)10月に上野膳城の攻防戦にて戦死したため、すでに元亀3年に戦死していた次男に代わって、三男の貞胤が家督を継いだ。
後に貞胤は、武田家滅亡後、徳川家に仕えている。