1514-1583 享年70歳。

大膳大夫、信濃守。

信濃国深志城主にして、信濃守護。

武田晴信の侵攻を阻止し、一度は、信玄を追い詰めたが、1548年天文17年7月、塩尻峠の戦いにて、武田軍に敗北すると、その後は守勢に回り、劣勢となる。

1550年天文19年7月、長時は本拠の林城も武田軍に奪われ、敗走した。

その後、駿河、伊勢を経て、1555年弘治元年、同族の摂津・三好長慶を頼って、上洛を果たした。

将軍や朝廷へ赴いて、武家作法本家の小笠原流を講じたり、弓馬術を披露して、称賛の栄誉を得ている。

1569年永禄12年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛戦を展開すると、長時は京を後にした。本圀寺の変で長時は弟・信定を失っている。

その後は、越後の上杉謙信を頼り、1578年天正6年、謙信が没し、御館の乱が起こると使者の役目を務め、上杉景勝が上杉家の家督を継ぐと越後を離れた。

1581年天正8年、長時は織田信長に迎えられ、信濃の旗頭として、名を連ね、信長の京都御馬揃えでは公家衆の一人として参加した。

その後、再び東国へと足を向け、会津の蘆名盛氏に客分として迎えられた。

1583年天正11年2月、長時は会津の地にて客死した。

武家礼法、弓馬術の伝統を広く知識人に広めたことは、大きな功績といえよう。

三男貞慶は、長時が蒔いた武家文化を担う家格としての厚遇恩恵を受け、本領回復、子息の良縁などに恵まれることとなった。