おがさわら さだよし

1546-1595 享年50歳。

右近大夫。

小笠原長時の三男。

信濃守護小笠原家の跡取りとして生まれるも、父・長時の代に武田信玄の侵攻を受け、これを凌ぎきれず、信濃を追われる。

越後を経て、父とともに伊勢、摂津、京都と諸国漫遊の旅をする。

京都を支配していた同族の三好長慶の客分となり、武家礼法小笠原流を講じたり、弓馬術を披露して、称賛を得る。

1569年、織田信長が足利義昭を擁して上洛してくると、戦乱を避けて、越後へと落ちた。その後、近畿に勢力を張り、安定政権を打ち立てた織田信長を頼り、京都へと戻る。

1582年天正10年、織田信長が本能寺に斃れると、貞慶は戦乱を避けて、徳川家康と共に三河へ向かう。その後、叔父・貞種とともに信濃の奪還に成功する。

徳川方信濃勢として秀吉方の木曽義昌と抗争するが、徳川家康の重臣・石川数正が秀吉に寝返るとこれに同心して,秀吉の家臣となる。

秀吉と家康が和議を結んだ後も、信濃にあって、1590年に起きた小田原征伐にも参軍した。戦後、下総古河に移封となり、同地を統治した。