吉川 元長
きっかわ もとなが
1548-1587
享年40歳。


名称:鶴寿丸、少輔次郎、治部少輔


居城:安芸小倉山城

■1548年、吉川元春の長男として誕生。

■1561年、14歳で元服した元長は、
尼子氏の月山富田城攻めを初陣として
、その後、父・元春とともに各地を転戦
する。

■1582年、百戦錬磨の猛将である父・元
春も老齢には勝てず、隠居することと
なり、元長がその家督を継いだ。

■毛利宗家が秀吉に属することとなり、秀
吉の要請で兵を動かす際に元長は吉
川軍を率いて参軍した。

父・元春に劣らず猛将であった元長は
、秀吉の四国征討戦に参軍し、常に勝
利を飾った。

■四国征討戦でその武勇を諸将に披露し
た元長は名実ともに父・元春の後釜の
実力を持つ人物として評価された。

秀吉の九州征討戦では、秀吉嫌いの
元春も秀吉のたっての希望で重い腰を
動かし戦いに参軍。

かつては毛利軍最強の猛将として諸将
に恐れられた吉川元春である。
百戦錬磨の老練な戦振りを居並ぶ諸
将に披露するはずであったが、九州の
風土にその老体が合わなかったのか、
病にかかり、同地に没するという事態
に至る。

元長は父の死を悲しむ暇もなく、九州
平定戦に出陣。父譲りの猛勇振りを九
州諸将にしらしめた。

■1587年、元長は毛利両川の一翼を担う
優秀な武将として毛利家飛躍の主軸を
成すものと諸将から期待されたが、あ
えなく病没した。
享年40歳。

その後、武名でならした吉川家を継い
だのは実弟の吉川広家であった。

しかし、広家は武勇よりも智略をもって
、毛利家を支えていくことと成る。