吉川 元春
きっかわ もとはる
1530-1586
享年57歳。


名称:少輔次郎、治部少輔、
従四位下、駿河守


居城:安芸小倉山城

■1530年、毛利元就の次男とし
て誕生。

■1547年、元就の巧みな外交手
腕によって、御家騒動が起こっ
ている吉川興経の養子となり、
興経を強引に隠居させ、元春
は吉川家当主となる。

■吉川家は山陰方面に地盤があ
ったため、毛利家の山陰方面
攻略に従事した。
また、猛将であったことから毛
利軍の主力として各地を転戦
した。
生涯通じて76の合戦を経験し、
そのうち64勝という華々しい戦
歴を築き上げた。

■猪突猛進の猛将として知られる
元春だが一方で文人としての
一面を見せ、尼子家の居城・月
山富田城攻めでは、長期の攻
城戦になると見越すと元春は陣
中で『太平記』全40巻を写本し
て、兵学、文学に親しんでいる。
戦場においても悠然と文物に相
親しむという図太い胆力を諸将
に示している。

■尼子家滅亡後、尼子残党は尼子
勝久を擁立して義将・山中幸盛
を中心とする反毛利軍を挙兵。

尼子家再興を目指す三度の挙
兵を元春は全て鎮圧。
播磨国上月城(こうづきじょう)に
立てこもり、織田軍の羽柴秀吉の
救援を待つ尼子勝久を攻め、こ
れを自刃させた。
元春はゲリラ戦を仕掛ける山中
鹿之助幸盛を一度は捕らえたも
ののその武勇を惜しんで助命し
たが、再び反毛利の挙兵に及ん
だ幸盛に憤激し、元春は、恩義を
わきまえずとして再びこれを鎮圧。
再度、捕らえた幸盛を斬首した。
元春は、反毛利の挙兵をする者
に対して断固とした態度で臨んだ。

■織田氏が近畿を平定し、いよいよ
もって中国へと侵略を開始し出す
と、因幡国鳥取城主・山名豊国が
毛利方から織田方へと寝返るな
ど毛利方から織田方へと寝返る
ものが続々と出だす。
織田方へと寝返った山名豊国だ
ったが、山名家重臣はこれを不
服として、ついに豊国を城より追
放。再び毛利方へとついた。

山名家重臣が毛利方の武将を
城主に迎え入れたいとの要請を
受け、毛利家は吉川家の庶流で
石見国安濃郡松山城城主・吉川
経安の嫡子・吉川経家を鳥取城
主として差し向ける。

しかし、織田軍2万を率いた羽柴
秀吉は鳥取城を包囲。有名な『
鳥取城渇殺し』を行う。この時、
鳥取城には兵糧があまり入って
いなかったことも災いした。

実は鳥取城を兵糧攻めすること
を計算した秀吉が兵庫の商人を
使い、鳥取城近隣の米を高く買
い付けさせていた。

このため、米を沢山商人に売っ
てしまったため、いざ篭城戦に
なると敵がくる前に城周辺の村
々から兵糧米をかき集めてくる
ものの米は商人にほとんど売り
払われてしまっており、鳥取城
は兵糧米不足のまま、羽柴軍
との篭城戦を余儀なくされたの
である。

このため、羽柴軍が鳥取城を包囲
すると城内はたちまち兵糧米がな
くなり、飢えに苦しむようになった。
毛利本国からの援軍も望めないま
ま、篭城戦は200日に及び、城内
では、馬を殺して食べたり、ついに
は土塀に使われているワラを掘り
出して煮て食べるという飢餓地獄
と化した。

ついに鳥取城主・吉川経家は城兵
の助命と引き換えに自刃して果てた。
秀吉軍は投降してきた飢えた敵兵
のために食事を用意して介抱に努
めたが、急激に食したため、体調
を崩して多数のものが急死すると
いう惨事も起きた。

ようやく、鳥取城救援の軍を動か
した元春だったが間に合わず、
中国山陰地方の要所・鳥取城は
陥落してしまい、毛利家にとって
は不利な戦局となってしまう。。

■元春は大軍を率いて伯耆に進軍し、
秀吉が率いる織田軍と対陣。
高山で陣地を築き、背後の橋津
川の橋を落として背水の陣を敷き、
決死の覚悟を見せ、でもはや一歩
たりとも毛利領内に織田軍を侵攻
させまいとした。

元春の決死の覚悟を見た秀吉は
決戦を回避して、退却していった。

■再び秀吉が毛利領侵攻を進め、備
中高松城を水攻めにすると元春は
小早川隆景とともに大軍を率いて、
援軍に向かった。
しかし、高松城は大量の水溜りに
つかり、湖に浮かぶ孤島の城と化
しており、吉川軍は兵糧米などを
高松城に入れることができないで
いた。
そんなこう着状態が続くと秀吉軍
から再三に渡って講和の使者が
毛利軍に訪れた。
しかし、かたくなにそれを拒否して
きた毛利軍であったが、秀吉軍が
いよいよ譲歩する休戦の使者を送
ってくるとこれに従うほかないとし
て、講和が成立。
講和が成ると元春は、老体を理由
に隠退。
長子・元長に家督を譲った。

■豊臣政権が成立し、毛利家もそれ
に参画するに至ると、元春は外交
を全て実弟の小早川隆景に任せ
、秀吉の出兵戦に際しても子の元
長を参軍させるだけで、自らは秀
吉に一切会おうとはしなかった。

秀吉の九州征討に際して、秀吉の
たっての希望と毛利輝元、小早川
隆景の説得でついに重い腰を動か
した元春は、久々の戦場の匂いを
味わうが九州の地で病に倒れ同地
に没した。
享年57歳。