小早川 秀包
こばやかわ ひでかね
1567-1601
享年35歳。

名称:才菊丸、藤四郎、元総、
瑞光院殿玄済道叱

■毛利元就の九男。
母は、小早川氏一族の乃美隆興の娘
である。
小早川隆景に実子がなかったため、小
早川家家臣らが隆景に請うて、秀包は
小早川家の養子となった。

■1582年、備中高松城合戦の講和で羽
柴秀吉と毛利氏が講和を成立させた時
、一条件として隆景の養子・元総(秀包
)と吉川元春の三男・経信(広家)が人
質として京に赴くことになった。

1583年、秀吉が中央政権を奪取すると
、毛利氏の二人の人質は大坂へ送ら
れた。

秀吉は元総(秀包)を寵愛し、1584年
小牧・長久手の戦いに元総を従軍させ
ている。

凱旋後、秀吉の養女となっていた大友
宗麟の娘を元総に娶わせ、秀吉の一
字を与えて、秀包と改名させた。

■1587年、九州平定を成した秀吉は、九
州の領地配分にあたって、小早川隆景
に筑後国を与え、隆景は秀包に筑後国
のうちの三郡を分与し、統治を任せた。

同年の肥後国の国人一揆では秀包は
、小早川軍の先鋒として出陣。鎮圧戦
に活躍した。

■1593年の文禄の役では養父・隆景を助
けて、明の大軍を撃破している。
この頃、毛利宗家では、秀吉の甥・豊
臣秀俊を実子のいない毛利輝元の養
子にする話が持ち上がっていたが、隆
景の機転で小早川家の養子として秀
俊を迎え入れることとなった。

そのため、秀包は小早川家の別家を立
てて、これに対応している。

■久留米小早川家を立てた秀包は、
1600年の関ケ原合戦で西軍に属し、
戦ったため、筑後の所領を没収さ
れた。

一族郎党とともに流浪する危機を迎え
たが、毛利宗家の毛利輝元は秀包の
子・元鎮に7000石を与えて家臣とし、
小早川家を毛利家に迎え入れた。

後に元鎮には毛利姓を復させたため、
小早川氏の名跡は消滅した。