おだ のぶただ
1557-1582
享年26歳。
名称:奇妙、奇妙丸、勘九郎、信重、
出羽介、正五位下秋田城介、
従三位左近衛権中将
居城:美濃岐阜城
■1557年、織田信長の嫡男として尾張
清洲にて誕生。
母は生駒家宗の娘・吉乃(きつの)。
■1572年、信忠16歳にて、実弟・北畠
信雄、神戸信孝とともに元服する。
幼名・奇妙丸から織田勘九郎信重と
改名する。
同年7月、信忠は近江浅井攻めで初
陣を果たした。
■初陣を果たした頃から信忠は、織田
家跡取りとして尾張の一部の政務を
任され、政治・戦術の諸術を学ぶこ
ととなる。
■1574年、18歳の信忠は長島一向一
揆討伐に出陣し、尾張衆と東美濃衆
を率いて、市江口に布陣した。
ここに信忠旗下の軍団が組織された
のである。
■信忠は近畿平定戦にはほとんど参軍
せずに美濃尾張に留まっている。
これは、信忠率いる軍団が武田氏
の牽制という役目を負っていたから
と見られる。
1575年3月に武田勝頼がが大軍を
率いて三河に侵攻してくると信忠
は、軍を率いてこれに備える動きを
見せている。
■1575年5月、武田勝頼が率いる武田
軍が長篠城を包囲すると救援を求め
る徳川家康に応じて、信長は大軍を
擁して出陣。信忠もこれに従った。
長篠の戦いで世紀の一戦を経験し
た信忠は、無敵の武田騎馬隊を破り
、岐阜に凱旋を果たすと、今度は東
美濃に入り、武田方の猛牛と恐れら
る、秋山信友の岩村城を包囲した。
同年11月、これを陥落して、猛将・
秋山信友を斬首して美濃に凱旋した
。
この戦果を見た父・信長は、同年
11月28日、織田家の家督を信忠に
譲り、同時に岐阜城主に任じた。
■家督を譲った信長は、戦場で指揮を
執ることはほとんどなくなり、代わり
に信忠が織田軍総大将として指揮
を執ることと成る。
松永久秀・久通父子が謀叛すると
この討伐軍の指揮を執り、見事鎮圧
に成功する。
この軍功を評した朝廷から信忠は、
従三位中将に叙任されている。
■1582年、甲斐武田家をいよいよ滅ぼ
すべく甲州遠征に出陣した信忠は、
独力で武田氏の最後の抵抗を撃破
し、この遠征で目覚ましい活躍を見
せた。
これを見た信長は『天下之儀与奪』
を約束されるまでになる。
■1582年6月2日、明智光秀が謀叛を
起こし、父・信長が本能寺に散ると
信忠は二条城に立てこもり、明智軍
と激しく戦った。が、智将・光秀の軍
略には抜け目がなく、戦線離脱も
ままならず、信忠は壮絶に討死した
のである。
享年26歳。
信長とともに親子で光秀に討たれた
ことはその後の織田家の権勢を失墜
させるに十分な要因となってしまった
。信忠が存命であれば、秀吉の台頭
も有り得なかったことだろう。
その意味で信忠の死は歴史的に大
きな転機となったことになり、信忠が
どれだけ重用な人物であったかが
うかがい知れる。