しばた かついえ
(1525?-1583)
享年59?歳。
名称:権六、修理亮
居城:越前北ノ庄城
■織田信秀、信長の二代に仕え
た織田家の重臣。
尾張国愛智郡に所領を持ち、
尾張守護・斯波家の一族、柴
田土佐守の子と伝えられて
いるが定かではない。
■主君・織田信秀が没すると信
長の実弟・織田信行の家老
となり、信長と対立。
信長の素行の悪さと所領が
信行の監督地域だったことか
ら林通勝らと謀り、信長廃嫡
を画策。
■しかし、信長暗殺計画が未遂
に終わると、勝家は軍馬を擁
して信長と合戦に至る。
だが、信長のずば抜けた用
兵術の前に柴田軍は完敗に
帰す。
■以後、勝家は信長に信服し、
信長の重臣として活躍するこ
ととなる。
合戦後、信行は再び、謀反を
企てる。が、勝家はかねてか
ら信行の人事采配に不満を
持っていたため、信長に信行
の謀反計画を密告。
■信行謀反は失敗に終わる。
この功績により勝家は信長
の重臣に取り立てられる。
■以後、勝家はその猛勇ぶりで
常に合戦の先鋒を務め、『鬼
柴田』の異名で諸将に恐れら
れることになる。
■1572年、近江長光寺城が六
角勢に包囲される。
城の水源を絶って、日干し作
戦に出た六角勢に対し、守
将の柴田勝家は、残りの水
瓶を全て割り、後がないこと
を兵士に悟らせ、決死の覚悟
で六角勢の包囲網突破を決
起する。
背水の陣で臨んだ柴田軍の
士気は非常に高く、六角勢の
包囲をあっさりと突破すること
に成功する。
この逸話で”瓶割り柴田”の
異名をとる。
■織田家臣団の最高の重臣と
して、北陸攻めの総大将を
務める。
浅井、朝倉攻め、越前一向
一揆討伐など次々と軍功を
重ね、1575年その恩賞とし
て越前の支配を任される。
居城を北ノ庄城に定めた勝
家は、城下町の整備と道路
整備、橋梁の整備と次々と
都市建設に着手した。
北陸一の城下町を作り上げ
ようとするなど治世としての
手腕も振るった。
■能登、越中へと北陸を侵攻し
ていった勝家だったが、北陸
最大の武将・上杉謙信と対
峙することとなり、1577年手
取川で奇襲を受け、大敗を
喫した。
■1578年、軍神・上杉謙信が病
没したことで北陸攻めが楽に
なると統治領の加賀一向一
揆征伐などを開始した。
■1580年、加賀一向一揆を漸く
鎮圧し、北陸に平和を取り戻
した。
■1581年、北陸統一まであと一
歩まで迫ったことで北陸情勢
の報告のため安土城へ赴い
た勝家は、信長より恩賞とし
て名物茶器の”蛯口の釜”を
賜る。
■越中魚津城攻めで上杉景勝
と対峙した勝家に本能寺の
変の報が伝わる。
強敵・上杉勢との対峙の最
中だけに動くに動けず、秀吉
に弔い合戦という油揚げをさ
らわれた勝家は、織田家一
の宿老としての権限を失うこ
とと成る。
■1582年6月、清洲城で開かれ
た清洲会議の席で、勝家の
薦める織田信孝の織田家後
継は秀吉の三法師後継の談
議に屈した。
機転と根回しを存分に駆使す
る秀吉に対し、正々堂々の戦
いでしか力量を発揮できない
勝家とでは、
勝敗がこの会議にて決してい
たといっても過言ではない。
■泰山の如く何事にも動じず堂
々とした勝家も変幻自在の
水流の如き、秀吉の策略の
前に次々と先手を打たれて
しまった。
1583年3月、越前の雪解けを
待ってからの出陣となった勝
家軍が近畿へ出張った時に
は、秀吉の有利さが格段に
上がっていた。
賤ヶ岳で両軍が対峙すると、
膠着状態となる。この戦況を
打開するため、秀吉は、兵を
分散し、本隊を率いて岐阜の
織田信孝攻めに動く。
少数兵を賤ヶ岳に残すという
妙策に出た。何かの策略と
感じた勝家は賤ヶ岳を動かな
いが、勝家の甥にして猪武者
として知られる猛将・佐久間
盛政の熱心な出陣許可に押
され、勝利後、すぐに兵を戻
すことを条件に出陣を許す。
猛将の盛政隊は中川清秀を
討ち取るなど快勝し、秀吉の
引き払った陣跡を占拠。
兵を退かず勝利を祝って酒宴
を開いた。
柴田軍動くの報を知った秀吉
は、疾風迅雷の如き素早さで
大軍を賤ヶ岳へ戻すと驚く
柴田軍を前に奇襲攻撃を
断行。
9000挺とも言われる大量の
鉄砲を用いた秀吉軍は強敵・
柴田軍を敗退させ勝利する。
勝家は、自慢の武勇を披露
する暇も無く本国越前へ敗走
した。
■秀吉軍の勝家追撃は凄まじく
、態勢を整える暇を与えられ
ない勝家は、北ノ庄城へこも
り、茶々ら三人の娘を城から
出し、壮絶な攻城戦を展開し
、妻・お市の方とともに没した
。享年59?