(さくま のぶもり)
1520?-1581
享年62?歳。
名称:半介、右衛門尉、夢斎定盛
居城:尾張山崎城→近江永原城
→三河刈屋城
■織田信長の父・信秀の頃から織田
家重臣として活躍。
■1560年、桶狭間合戦では、善照寺
砦の守将を務め、今川勢を引き付
け奮戦した。
■1567年、織田家重臣として信長の
息女・五徳姫が徳川家へ輿入れ
する際に警護役として三河岡崎
城まで随行した。
■1570年、近江長光寺の戦いで、柴
田勝家とともに六角勢を破り、抜
群の軍功として信長から賞賛された。
■1572年、武田信玄の西上軍略が開
始されると信長の命で信盛は、徳
川方の援軍として派兵する。
三方ヶ原の戦いでは抗戦せずに戦
場を離脱する。
信盛の同僚・平手汎秀はこの戦い
で奮戦し、戦死する。
■信盛は織田家の中核として活躍。
伊勢一向一揆攻め、越前一向一
揆攻めに参軍し、大役を果たして
いる。
■三河の水野信元が罷免された後、
その領地である三河刈谷を加増
され、織田家重臣として栄華を極
める。
■1576年、織田家重臣として飛躍し
ていた信盛にかつてない大任役
がめぐってくる。
本願寺攻めの総大将に任じられ
たのである。
本願寺という強敵の攻略のため
、信盛には尾張、三河、大和、河
内、和泉、紀伊の各国軍団を動
員する権限が与えられ、織田家
最大の軍団長となる。
■本願寺攻め総大将という織田家
屈指の名誉ある大任を四年間
務めた信盛であったが、本願寺
攻略が不成功に終ったことで信
長から激しく叱責されることとな
った。
■1580年8月、人生最高の栄華か
ら一転、信盛は子の正勝ととも
に信長から十九ヶ条に及ぶ折檻
状を突きつけられ、本願寺攻め
総大将の任を解かれ、高野山へ
追放処分を受ける。
信盛親子は、命令に従い剃髪し
高野山入りしたが、信長の憤激
は収まらず高野山も追われ、熊
野などをさまよったあげく、1581
年大和十津川で湯治中に没した
といわれる。
■信盛追放という処分は、信盛だけ
に留まらず、林通勝、安藤守就、
丹羽氏勝ら織田家譜代の重臣に
対し、職務怠慢などの叱責を買
い、追放処分となっている。
織田家の老僕にして不活躍の上
、大禄ばかりをむさぼる愚の骨頂
を全て取り払い新規構想を信長は
断行したのである。