りゅうぞうじ たかのぶ
1529-1584
享年56歳。


名称:長法師丸、円月、胤信、山城守
居城:肥前佐嘉城


■龍造寺周家の長男。
  のちに”肥前の熊”と称されて、
  諸将から恐れられる猛将となる。
  疾風迅雷の早業で、領土拡大を
  実現した隆信の武力は絶大で
  あった。

  度量が広く、裏切った者でも帰属
  すれば、その罪を許し起用した。
  その度量の広さから龍造寺家の
  一族で隆信を裏切った者はいな
  かったという。

■隆信の名を挙げるならば、必ず
  それに追従する武将がいる。
  後に九州遠征にきた豊臣秀吉が
  九州一の武将は、鍋島直茂と立花
  宗茂であると称した。
  その鍋島直茂は、隆信の義弟で
  ある。

  隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)は
  、夫・龍造寺周家がなくなり、未亡
  人となっていた。
  その頃、龍造寺家家臣の中で逸材
  だった直茂の父・清房が妻に先
  だたれ、独身であったことを知り、
  慶誾尼は清房の押しかけ女房とな
  った。
  慶誾尼は、利発な直茂を隆信の
  親族として龍造寺家繁栄に活かそ
  うとしたのである。

  この慶誾尼の思惑は、見事的中し
  、直茂は戦略的智勇においては、
  九州一を誇り、隆信の武勇と合わ
  せて、五州二島を領有する栄華を
  成したのである。
  直茂の特筆すべき軍功は、なんと
  いっても今山の戦いである。
  隆信は、生まれつき大言を吐く癖
  があった。隆信が若かりし頃、まだ
  胤信と名乗っていた時、龍造寺家
  の家督を継いだ際に家臣一同を
  前にして10年もすれば九州はおろ
  か、四国、中国までも領有する
  だろうと宣言した。

  しかし、胤信がいざ初陣するとあっ
  さりと敵に大敗するという手痛い
  洗礼を受けた。
  何とか勢力を盛り返したその後、
  再び隆信は肥前一円に勢力を
  拡大させた。しかし、この無謀な
  勢力拡大が北九州の雄・大友氏
  を怒らせる結果となる。
  1570年、大友氏は大友親貞を総
  大将とする大軍を肥前へ派兵。
  筑前・筑後・肥前・肥後の国人領主
  も大友軍に加わり、総勢6万とも7万
  とも知れぬ大軍に膨らみ肥前佐嘉城
  の龍造寺家へ迫った。

  隆信はこの時も自慢の冗舌を活かし
  て、迫り来る大友軍に対し、使者を
  発して、総大将の大友親貞に書状を
  幾度となく送っている。
  その内容はユーモアに溢れた内容
  となっており、”ちょっと出すぎたこと
  をして申し訳ない。ちょっとした悪ふ
  ざけを本気で怒るなんていやじゃい
  やじゃ”といった具合である。

  龍造寺軍は孤立無援となり、手勢50
  00にも満たない軍勢しかなく、12倍
  以上の敵に対して、この余裕を見せ
  るところにも隆信らしい度量の大きさ
  をうかがいしることができる。
  今山に本陣を構えた大友軍は龍造
  寺軍が篭る佐嘉城を取り囲み、泰然
  と兵糧攻めに入った。

  打開策の見えない中、鍋島直茂が
  敵は遠路はるばる肥前まで出張って
  きているのだから軍兵は疲弊している
  に相違ない。
  敵の本陣の位置は察しがつくので
  夜陰にまぎれて強襲して、敵の総大将
  の首を挙げましょうぞと述べ、隆信は
  その作戦に賛成し、手勢を直茂に与え
  て、出陣させた。

  直茂は動きやすい鎧を身に着けつつ、
  全兵士に対し、脅し鎧の仮面をつけさ
  せ、敵を恐れさせる工夫をして出陣。
  今山に布陣する本隊を猛襲。
  夜陰から鬼のような面をつけた猛者が
  次々と斬り込んできたため、大友軍の
  本陣は大混乱となった。

  この混乱の中、大友軍総大将・大友
  親貞はあえなく討ち取られ、この知ら
  せを受けた隆信は城を討ち出て敵に猛
  襲した。
  総大将が討ち取られ、統率がとれない
  大友軍は散り散りになって散開して
  敗退していった。

  これが有名な今山の戦いである。
  これを契機に龍造寺氏は肥前周辺で
  逸脱した勢力を保持し、九州制覇の
  趨勢を伺う勢力に躍り上がることとな
  った。

■隆信の家臣は、みな勇猛な武将で、
  中には余りに猛者であったことから
  百の武勇を結集した者という意味を
  込めた”百武(ひゃくたけ)”という姓を
  隆信が与えたほどであった。

■肥前に一大勢力を築いた隆信であった
  が家督を嫡子・政家に譲った頃から
  素行が変貌し、酒に溺れ、仁愛の政治
  を行わなくなる。

  龍造寺家最大の恩人である蒲池家を
  ほとんどの家臣もろとも虐殺し、隆信
  の娘婿を酒宴に呼び出し、謀殺。
  謀叛の嫌疑をかけられた赤星統家を
  再三にわたって呼び出したがこれに
  応じないため、みせしめのため、人質
  として取っていた14歳になる統家の嫡
  男と8歳の娘をはりつけに処した。

  この非情な隆信の素行に周辺の国人
  領主は恐れ、結果として龍造寺家から
  忠義心が離反することとなった。
  隆信自身も日々の暴飲暴食のために
  肥満体となり、馬にも乗れず、6人担ぎ
  の輿に乗って、戦場を移動したという。

■1584年、肥前・筑前・筑後・豊前・肥後・
  壱岐・浮島など五州二島の太守となっ
  た隆信に運命の決戦が訪れる。
  九州の覇権をめぐって九州分け目の
  戦いが島津軍との間で勃発する。

  当初、島津軍も反龍造寺氏の勢力を
  一時救援する目的で派兵した手勢で
  あったが、龍造寺軍が5万8000もの
  大軍を率いて殲滅に島原まで出張って
  くると救援隊の島津軍総大将・島津家
  久は、有馬氏と連合してこれを迎え撃
  った。

  地理的に防備しやすい沖田畷に布陣
  した島津軍は、湿地帯のために細い
  一本の道しかそこを通り貫けできない
  ことを利用して、細い道を進軍する
  龍造寺軍を強襲した。
  いかに大軍といえども細い道から進軍
  しては少数部隊となり、瞬く間に犠牲
  者が続出した。
  この戦況に業を煮やした隆信は、全軍
  に対して、湿地帯を突き進んで島津軍
  の裏を取るように命令する。

  しかし、この命令が龍造寺軍を大混乱
  にさせた。湿地帯に足を取られ思うよう
  に進むことが出来ない龍造寺軍に島津
  軍は弓鉄砲を撃ち掛けた。
  混乱する中で、今度は後方の雑木林
  から島津軍の伏兵が飛び出してきて、
  身動き取れない龍造寺軍を挟み撃ち
  にした。

  これで大混乱となった龍造寺軍は、
  後方で島津軍の伏兵によって、隆信の
  いる本陣を強襲され、隆信自身が討ち
  取られてしまった。
  島津軍の川上忠智の手によって討ち
  取られたことが知らされると龍造寺軍
  は崩壊。本国である肥前の佐嘉城へ
  一路退散していった。
  この戦いで龍造寺軍は総大将の隆信
  以外にも百武賢兼、円城寺信胤、木下
  昌直、成松信勝、倉町信俊、江里口
  信常など頼みとする勇将がことごとく
  討死してしまう。

  龍造寺家にとって唯一、幸いであった
  ことは、この戦いで名将・鍋島直茂が
  生き延びたことである。
  この直茂の存命によって、追撃してき
  た島津軍は一挙に肥前を制覇すること
  ができなかったのである。

■隆信が死すと島津軍は、すかさず肥前
  の国人領主を加えて、肥前佐嘉城に
  篭る龍造寺軍を包囲した。
  総大将以下、屈強な名だたる武将が
  ゴッソリと抜け落ちた龍造寺軍には、
  もはや抵抗する余力は残っていなかっ
  たが、”葉隠”精神の下、頑強に篭城
  した。

  島津軍総大将・島津家久は無駄な争
  いを避けるべく、討ち取った隆信の首
  を塩漬けにして使者に持たせ、佐嘉城
  に発した。
  島津軍の使者は隆信の塩漬けした首
  を龍造寺軍の居並ぶ諸将に見せ、降
  伏を勧告した。

  これを見た隆信の実母・慶誾尼(けい
  ぎんに)は、七十過ぎの老婆でありな
  がら、島津軍の使者に対して、”敗軍の
  将の首などいらぬ。この抜けた首を持
  って、即刻薩摩へ帰るがよろしかろう”
  と。
  使者は驚きつつも、島津本陣へ立ち戻
  り、龍造寺軍の返事を家久に伝えた。

  家久は、決死の覚悟を見せる龍家に対
  し、これ以上の強攻策は愚策と判断。
  ”葉隠”の恐ろしさをかみ締めつつ、家
  久は行き所を失った哀れな隆信の首を
  丁重に埋葬してやり、全軍に撤退命令
  を出した。
  この決死の覚悟を見せた龍造寺家に
  対して、島津軍は手出しする事無く、大
  友氏へと鉾先を変えてゆくことと成る。