桂 元澄
かつら もとずみ
1500-1569 享年70歳。
名称:左衛門尉、能登守
居城:安芸桜尾城
■桂広澄の子。
桂家は昔、毛利家から出た庶流の家
柄で、毛利家中でも発言権を有した。
元澄の父・広澄は毛利家当主・弘元、
興元、幸松丸が相次いで死すと、元就
相続に反対して、元就の異母弟・毛利
元綱を擁立した。
しかし、元就の先手を打った処置によ
り、元網とその一派はことごとく斬られ
、広澄も進退窮まって、自刃して果
てた。
当然、元澄も実弟・元忠とともに討死を
覚悟したが元就にその才覚を惜しまれ
、助命されている。
■1555年、厳島の戦いでは、元就の本拠
地・郡山城の守備という大任を任され
ている。
このとき、元澄は別の大任も元就から
任されていた。
それは、密かに陶晴賢に内通して、元
就を裏切るという偽りを演じさせ、元就
が郡山城から出陣すると元澄は固く城
門を閉じて、元就が帰還できないよう
にしたと陶方に報告し、まんまと晴賢を
だましたのである。
毛利氏に内応者ができたことで慢心し
た晴賢は、2万の大軍を率いて、厳島
で毛利軍を壊滅させようと臨んだ。
しかし、結果は毛利側に内応者が一人
も出ず、首尾よく元就の策略に乗せら
れた陶軍は、厳島に乗りつけた船団を
焼かれ、退路を断たれ、壊滅した。
総大将の陶晴賢も活路を見出せず厳
島をさまよい続け、ついに自決して果
てた。
■戦後、元澄は元就から厳島と厳島神社
の管理を任されている。