だて さねもと
1527-1587
享年61歳。


名称:時宗丸、藤五郎、兵部大輔、
    棲安斎、雄山
居城:陸奥大森城→陸奥八丁目城


■伊達稙宗の三男として誕生。
  伊達晴宗の実弟で、伊達輝宗の叔父
  にあたる。

■実元は、外祖曾祖父である越後守護・
  上杉定実の養子となることが盟約され
  ていたが、入嗣直前に実兄・晴宗が実
  力でこれを妨げ、父・稙宗を西山城に
  幽閉するという”天文の乱(洞の乱)”
  が勃発した。

  これにより、伊達家は家中を二分する
  抗争となり、内乱中、実元は父・稙宗方
  に属して戦ったが、結果的に晴宗方が
  勝利を得て、実元の上杉家入嗣の盟
  約は立ち消えとなってしまった。

■1570年、天文の内乱を陰で操った中野
  宗時が、伊達家の家督を継いだ伊達
  輝宗に謀叛を起こしたが敗退して相馬
  氏に逃亡。

  伊達家帰参を願った宗時から輝宗へ
  の仲介を依頼された実元であったが、
  輝宗の憤激の根は深く、帰参を許さな
  かった。

■以後、伊達家の中核を成した実元は、
  1574年、二本松城主・畠山義継の支城
  である

  八丁目城を攻略し、その城主となった。

■長年に渡って、伊達家の中核を勤めた
  実元は、1584年、戦上手の嫡子・成実
  に家督を譲り、八丁目城にて隠居生活
  を送った。
  この時、実元は剃髪して、棲安斎と号
  した。

■隠居後も実元は伊達家の外交役として
  活躍し、1585年の畠山氏和睦願い出
  に応対した。

■1586年、実元は相馬義胤による畠山氏
  と伊達家の和睦調停を政宗に取り次ぎ
  、畠山氏との和議を成立させるなど伊
  達家にとって重要な外交政策に深くか
  かわった。

■1587年、伊達家にとって実元は、欠くこ
  とのできない外交官であったが、歳に
  は勝てず、隠居所の八丁目城にて病
  没した。
  享年61歳。