だて てるむね
1544-1585
享年42歳。


名称:彦太郎、総次郎、左京大夫、
    受心
居城:出羽米沢城


■伊達晴宗の二男として出羽米沢
  にて誕生。

■1565年、輝宗21歳のとき、父・晴宗
  との間に内紛が起こる。
  この時、父・晴宗は自分がかつて
  父・稙宗と家督相続をめぐって争っ
  たことを思い出し、反省したことで
  事なきうちに輝宗に家督を譲って
  いる。

  こうして輝宗は奥州の名族・伊達家
  16代目当主となったのである。
  ついで、輝宗は出羽の雄・最上義光
  の妹・義姫(よしひめ・保春院)と
  政略結婚をして、伊達家の基盤を
  固めた。

■輝宗は家督相続の際に内紛の首謀
  者として輝宗に反逆した中野宗時、
  牧野久仲父子を追放し、この伊達家
  内紛に乗じて領土侵害を行ってきた
  相馬氏と戦った。
  相馬氏の侵攻を斥けた輝宗は、休む
  間もなく、織田・徳川両氏と同盟を
  結び、外交面で手腕を振るった。
  また、妻・義姫の実家・出羽の最上氏
  で最上義守と最上義光との間で家督
  争いが勃発すると、輝宗は義守に味方
  して援軍を送るなど近隣諸国との紛争
  に明け暮れた。

■奥州の地に平穏の日が訪れることの
  ない中、輝宗は長男・政宗が13歳で
  元服すると処世術を教えることに熱心
  となり、政宗が15歳になると初陣を
  飾らせ、以後、3年間は近隣諸国との
  合戦に政宗を従軍させ、戦術の才を
  磨かせた。
  政宗の戦術武者修行ともいうべき年月
  を成した輝宗は、何の前触れもなく、
  家督を18歳になった政宗に譲り、自ら
  は政局から一切手を引き、隠遁生活に
  入った。
  この突然の家督継承と隠遁は、輝宗の
  二男・小次郎を伊達家当主に擁立しよう
  とする妻・義姫をはじめとする一派の
  行動を封じ込めるべく行った処置と
  思われる。

■突然の隠遁宣言から翌年、1585年に
  20歳にもならない若武者・政宗は小
  手森城の大内氏を討ち滅ぼす戦果
  を挙げ、伊達家当主としての才覚を
  内外に示した。

  政宗の期待以上の目覚しい活躍に
  喜ぶ輝宗であったが、政宗に敗北
  し、服属した二本松城主・畠山義継
  がお礼言上と称して宮森城に居る
  輝宗を訪ねてきた。
  輝宗は寛大に畠山一行を迎え入れ
  たが、隠居とあって輝宗の警護が手
  薄であったことを見抜いた畠山義継
  は、いきなり手のひらを返して、輝宗
  を拉致する暴挙に出た。
  輝宗は抵抗する暇もなく人質となり
  、畠山氏の本拠地・二本松に拉致さ
  れようとしていた。
  この報を聞いた政宗は、鉄砲隊を率
  いて畠山氏を追撃。
  阿武隈河畔で政宗率いる追撃隊が
  畠山一行に追いつくとにらみ合いと
  なる。
  このとき、輝宗は自分に構わず討ち
  取れと命じたことで、政宗は迷いを
  振り切り、銃撃を畠山一行に浴びせた。
  これに驚いた畠山一行は人質の輝
  宗を惨殺。これを見た政宗は、50人
  あまりいる畠山一行を一人も残さず
  斬り捨て、畠山義継を磔に処した。

  阿武隈河畔で犬死同然の横死とい
  う無念な最後を遂げた輝宗にとって
  、最も悔いの残ることは、政宗が天
  下之器と評される凄まじい活躍ぶり
  を一切見る事ができなかったという
  ことであろう。
  享年42歳。