だて しげざね
1568-1646
享年79歳。


名称:時宗丸、藤五郎、兵部、安房守、
    久山天昌
居城:信夫郡八丁目城→二本松城→
    伊賀郡角田城→亘理城(わたり)


■伊達稙宗の三男・伊達実元の子。
  母は伊達晴宗の娘で、政宗とは
  従兄弟にあたる。

■1585年、成実17歳の時、人取橋の
  戦いで軍功を挙げ、これ以降、成実
  は伊達軍主力部隊を率いた。
  ついで、小手森城攻めに参軍した
  成実は、政宗の命で陥落した城内
  にいた老若男女800人を斬首した。
  大内氏を攻め滅ぼした後も、成実は
  二本松城の畠山氏と激しい領土争
  いに明け暮れた。

■1586年、安達郡の渋川に布陣した
  成実は、敵軍と激突。敵の首級263
  を挙げるという華々しい戦果を飾った。

■1588年、成実は片倉景綱とともに安積
  郡の窪田砦の守将を務め、佐竹・蘆名
  連合軍と激しく戦う郡山合戦を行い、
  目覚しい活躍を見せる。
  この軍功により、政宗から褒詞を賜り、
  成実は名実ともに伊達軍主力部隊長
  となった。
  その後も成実は摺上原の戦い、須賀川
  の戦いでも華々しい戦果を残した。

■1590年、主君・政宗が秀吉に帰参し、
  伊達家の危機を脱して間もない頃、
  伊達領近隣の葛西・大崎領で一揆が
  勃発。

  伊達家は秀吉の命で会津に移封とな
  ったばかりの蒲生氏郷とともにその
  鎮圧にあたり、成実も目覚しい活躍を
  見せた。が、名将で名高い蒲生氏郷は
  政宗が一揆を陰で扇動していたことを
  見抜き、秀吉に密告。
  秀吉は政宗を詰問すべく名古屋へ呼
  びつけた。

  この時、伊達家に謀叛の意志がないこ
  とを内外に現すべく、成実は人質として
  蒲生氏の元へ向い、名生城に入った。

■1591年、伊達家の謀叛の疑いを晴らし
  た後、政宗は移封となり、伊達家は一
  揆が鎮圧したばかりの旧葛西・大崎領
  に入った。

  政宗が本拠地を岩出山に移したとき、
  成実は伊具郡十六郷、柴田郡一郷を
  賜り、居城を角田城に据えた。

■秀吉の命を受けた政宗は、朝鮮の役に
  従軍。成実も伊達軍主力部隊として
  参軍し、朝鮮半島へと渡った。激しい
  戦いの中、成実は食料確保に難攻す
  る日本軍を救出するなど数々の戦功
  を上げた。

  秀吉没後、朝鮮より帰国した成実は、
  伏見に滞在していたが、主君・政宗か
  ら思いのほか少ない恩賞しかもら
  えず。
  これに激怒し、高野山に出奔してしま
  った。

  この成実の暴挙に驚いた政宗は、留守
  政景を遣わし、成実の説得にあたらせ
  たが当人は頑固にも帰参を聞き入れな
  かった。

  この成実の態度に逆に激怒した政宗
  は成実の居城・角田城を屋代景頼に攻
  めさせるなど伊達家は、家中騒動に見
  舞われた。

  この戦いで羽田実景をはじめとする成
  実の重臣30余人が戦死するという事態
  に発展。
  その後、長引く家中騒動に対して、会
  津に新しく入っていた上杉景勝がつけ
  こみ、成実を5万石で召し抱えようと画
  策した。

  しかし、これにも頑として応じない成実
  は、石川昭光、留守政景、片倉景綱ら
  歴戦の盟友たちと対談して、ようやく伊
  達家への帰参に応じたのであった。

■1600年、徳川家康を総大将とする豊臣
  軍の会津遠征が開始されると、帰参し
  たばかりの成実は、伊達軍主力隊を率
  い、会津の上杉景勝を攻めた。

  この白石の戦いで目覚しい活躍を見せ
  た成実は、関ケ原合戦後、1603年に長
  年の軍功を賞されて、亘理城主に任じ
  られた。
  ようやく成実は伊達家一門衆に返り咲
  いたのである。

■1638年、主君・政宗が没した後、成実
  は将軍・徳川家光に呼ばれ、輿にて江
  戸登城を許される栄誉を受け、家光に
  謁見した。

  この時、成実は家光より饌を賜るなど
  過分な誉れを頂いている。
  この家光との謁見した席で成実は、奥
  羽での過去の軍議を談じ、その武勇伝
  に感嘆した家光から礼讃されている。

■1646年6月4日、奥羽一のつわものは戦
  国最後の名将として泰平の世に没
  した。
  享年79歳。

  成実は、政宗一代記として知られる『
  成実記(政宗記、貞山公治家記録)』の
  著書を後世に残した。