豊臣 秀頼
とよとみ ひでより
1593-1615
享年23歳。

名称:捨、捨丸、内大臣、右大臣
居城:摂津大坂城

■天下人・豊臣秀吉の二男として誕生。
※秀吉の長男・長松は生後まもなく
して死んだので、秀頼が豊臣家の
後継者となる。
母は、織田信長の妹・お市の方と近
江の大名・浅井長政との間に生まれ
た茶々(のちの淀殿)である。

世継ぎがなかなか生まれなかった
秀吉は、多くの人物を養子としてお
り、実子・秀頼の誕生は、秀吉から
溺愛を受ける。

すでに豊臣家の家督を継ぎ、関白
職に就いていた豊臣秀次を1595年
に切腹に追い込むなど、秀頼の家
督相続のための血なまぐさい抗争
が豊臣政権下で起こった。

■1598年、秀吉が病の床につくと、豊
臣政権の五大老を呼び、幼少の秀
頼を補佐してくれるよう秀吉は、涙
を流して頼んでいる。

■天下の覇者となった豊臣家の大事
な跡取りということもあって、幼い頃
より大坂城から出たことがなかった
秀頼は、19歳の時、徳川家康と二
条城で会見するため、初めて大坂
城を出たという。

この時、はじめて見た牛を側近にな
んと言う動物かと訪ねたという世間
知らずであった。
しかし、二条城で成長した秀頼と会
見した徳川家康は、対面した感想を
”賢き人物”と評価しており、戦国屈
指の知恵者・秀吉の血を受け継ぐ者
として、逸材の片鱗を見せている。

■1614年、徳川家康は、豊臣氏討滅の
言いがかりをつけ、豊臣氏に詰め寄
ると、秀頼は家康の要求である豊臣
氏を大和国へ国替えするという条件
を受け入れようとした。

しかし、万事、豊臣家の方針は若き
当主・秀頼が牛耳るものではなく、そ
の母・淀殿が持っており、時代の政局
を認めない淀殿は、徳川氏の要求を
拒否。
徹底抗戦を豊臣氏の方針とした。
その結果、大坂冬の陣が勃発。20万
の大軍で大坂城は瞬く間に包囲され
た。
しかし、さすが亡き太閤が生涯を通じ
て最高傑作と自慢した名城・大坂城
である。
いかに徳川軍が大軍をもってしても
容易に落ちる城ではなかった。
しかし、徳川軍を率いる総大将・徳
川家康には秘策があった。
豊臣秀吉が生前、築城した自慢の
大坂城について、いかにして落すか
という話をした。
徳川家康をはじめとする智将がこぞ
ってこの難題に答えをつまらせてい
ると秀吉は、自慢げに大坂城攻略の
秘策を教えた。

一度、大軍を擁して大坂城を包囲し
、三ヶ月ほどして、篭城に疲れたの
を見越して、和議を持ちかけ、大坂
城の外堀を埋めることを条件に和解
し、いったん兵を退く。
その後、和議条件として外堀を埋め
る作業をして、そのまま、一挙に内
堀まで埋めてしまい、大坂城を丸裸
にする。
子供でも大坂城本丸の石垣に近づ
けるくらいまで外堀、内堀を埋めて
なだらかにしてから再び大軍を擁し
て大坂城を攻めれば、いかに広大
な縄張りを持つ大坂城とて陥落す
る。
この秀吉の自慢話が結果的に豊臣
家滅亡を早める結果となる。
家康はこの秀吉の城攻め案を忠実
に実行し、大坂城に大筒を打ち込む
などして、篭城する豊臣軍を疲弊さ
せた。
長引く攻城戦で豊臣方が和睦した
がっていることを察知した家康は、
おもむろに和議の使者を送り、和議
の条件に外堀を埋める条項をきっち
りと盛り込み、和睦する。
徳川軍が退いた後、和議条項を実
施し、大坂城の外堀を埋める作業
に入ると、一挙に内堀まで埋めてし
まった。
これを豊臣方が徳川氏に抗議した
が後の祭り。
1615年、再び徳川軍は大軍を擁し
て大坂城を包囲。外堀、内堀を埋
められた大坂城の防備力は皆無に
等しく、もはや陥落も時間の問題
となる。

■この大坂夏の陣では、豊臣方の名
将・真田幸村の再三にわたって豊
臣秀頼の出陣要請を出したが、秀
頼の取り巻きがこれを拒否。
陣頭指揮だけでもということでいっ
たんは大坂城の城門まで出馬した
秀頼であったが、結局は城門を出
ずに大坂城天守閣に戻っている。

秀頼の出馬により浪人集団の豊臣
傭兵軍の士気を高めようとした真
田幸村の思惑は外れ、結果的に
徳川軍への大打撃を与える激戦
まで行う事無く豊臣軍は壊滅する。
秀頼は母・淀殿と共に大坂城陥落
とともに自刃して果てた。
享年23歳。