豊臣 秀長
とよとみ ひでなが
1540-1591
享年52歳。

 

名称:小竹、小一郎、長秀、美濃守、
大和大納言


居城:但馬竹田城→但馬出石城→
播磨姫路城→大和郡山城

■豊臣秀吉の異母弟。
兄・秀吉に従い出世目覚しい秀吉軍
団の副将として活躍。秀吉軍組織の
財務も担当し、秀吉にとっては欠くこ
とのできない有能な人材。

■秀吉の中国攻めに従軍し、播磨国攻
略の際には、目覚しい活躍を見せた。
1577年(天正5年)、但馬竹田城主と
なり、1580年(天正8年)には但馬出
石城主となる。

この時、秀長は但馬銀山の防備とい
う重用な役目を負っていた。
1582年(天正10年)、備中高松城攻
めを行っていた秀吉軍に本能寺の
変の急報が届くと秀長は秀吉ととも
に中国大返しを敢行。

山崎合戦で信長の仇討ち合戦を行
い、明智軍を撃破。秀吉の天下人と
しての戦略がその後展開され、秀長
は秀吉軍団の重要な駒として、ます
ます重きを成して活躍してゆくことと
なる。

■山崎合戦後、秀長は従五位下美濃守
に叙任され、播磨・但馬の領主を務
め姫路城に入った。
1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い
や1585年(天正13年)の紀伊根来寺
征伐にて秀長は戦功を挙げ、紀伊・
和泉を領した。

さらに四国平定戦では病に伏した秀
吉に代わって、総大将を務め、見事
、四国平定を成した。
この軍功により、秀長は大和一国を
領して、郡山城主となる。

1587年(天正15年)、九州平定戦で
は1万5000の大軍を率いて出陣。
同年8月には従二位大納言に叙任
され、大和大納言と称された。
1590年(天正18年)1月頃から病と
なり、翌年1591年(天正19年)1月
22日、大和郡山城にて没す。
享年52歳。