しまづ よしひろ
1535-1619
享年85歳。


名称:又四郎、忠平、義珍、兵庫頭、
    侍従、参議、少将
居城:日向飯野城


■島津義久の実弟にして、島津軍総司
  令官を勤めた。
  兄が軍略を立て、それを弟の義弘が
  実戦で見事達成するといったしっか
  りとした役割分担が島津氏の九州制
  覇を実現したのである。

■1574年、義弘39歳の時、大隈国平定
  戦で活躍し、1577年には、日向の伊
  東氏を排除して、日向の併合を実現
  した。
  この義弘の武勇は、遠く京都まで届
  いた。

■1587年、義弘52歳の時、豊臣軍の九州
  平定戦が起こると25万の大軍の前にさ
  すがに義弘の武勇も歯が立たず、島津
  氏は降伏するに至った。
  猛々しい薩摩隼人も戦国乱世の終りを
  告げられ、しぶしぶ鋒をおさめたので
  あった。

■1593年頃から始まった秀吉の朝鮮出兵
  では、他人の戦ごとにかかわることを
  嫌い、理由を何かとつけて、島津軍の
  出兵を断った。
  しかし、度重なる豊臣氏からの出兵要
  請に断ることができなくなった島津氏は
  そこらの漁船をかき集め、島津船団を
  使わずに渡海。
  その武勇を頼りとされ、常に危険な任
  務が割り振られた。

  秀吉が没し、帰国命令が下ると義弘は
  日本兵を無事に帰すべく、殿軍を勤め
  、その武勇を振るった。
  
■朝鮮出兵による疲弊が日本全土に広が
  る中、再び戦乱の嵐が吹き荒れた。
  義弘は老齢を押して、京都に向かい、
  政局荒れる真っ只中に突入した。
  1600年、徳川家康は会津の上杉景勝
  が謀叛を起こしたとこじ付け、豊臣家
  恩顧の家臣たちを率いて、会津に
  出立。

  このとき、家康は義弘に対し、”捨石と
  なる伏見城の鳥居元忠をよろしく頼む”
  と託され、この時点では島津氏は東軍
  として参加する予定だった。
  家康が会津に赴き、畿内ががら空きと
  なったことを見届けた石田三成は、挙
  兵し、伏見城を包囲した。

  この知らせを受けた義弘は手勢300を
  率い、伏見城救援をすべく向った。
  しかし、伏見城守将・鳥居元忠は、義
  弘の入城を拒否。鉄砲を撃ち掛けて
  きた。

  これに憤怒した義弘は、進退窮まり、
  結局西軍に付属してしまう。
  石田三成ら西軍の諸将は、勇猛で名
  高い義弘の西軍参加を大いに喜び、手
  勢の大将でありながら、軍議の席に招
  き、義弘の軍略指導を仰いだ。

■三成挙兵の知らせを受けた徳川家康は
  、待ってましたといわんばかりに早速、
  軍議を開き、豊臣家恩顧の武将が東軍
  に付くかどうか様子をうかがった。

  三成憎しに燃える豊臣家恩顧の武将
  が家康に忠義心を見せたことで、家康
  も重い腰を上げて、出立。
  関ヶ原の戦いが起こる長い前哨戦が
  開始されたのである。
  前哨戦では西軍優勢に事が運び、勝
  利を重ねた。

  しかし、武田信玄が手塩にかけて作り
  上げた甲州兵法を踏襲する徳川家康
  は、野戦の名手として名高い。
  前哨戦の不利も家康本隊の戦場到着
  によって一挙に挽回されることとなる。
  東軍がほぼ、尾張に集結したことを受
  け、関東の地よりはるばる進軍してき
  た東軍が疲弊していると見た義弘は夜
  襲を提案した。

  しかし、三成は野戦なれした徳川家康
  を前に下手に出張ることは難しいとし
  て長期戦を見込んで篭城した。
  この西軍の長期戦の構えを見た家康
  は東軍を一路、佐和山城攻撃を目標に
  し、次いで大坂城にいる毛利輝元を討
  ち果たし、大坂城に入城する計画を立
  てた。

  この東軍の西上に慌てた三成は、東軍
  の後を追って関ヶ原へとノコノコ出張っ
  てきた。関ヶ原で東軍の西上を食い止
  めるべく、布陣した西軍は、兵数で圧
  倒しており、有利であるものの、結果的
  に野戦の名手である家康と野戦を交え
  ることになってしまった。

  この時、島津軍は島津忠恒(のちの家
  久)が救援に駆けつけ、総勢1600人余
  に達していた。
  しかし、手勢であることには変わりなく
  、合戦の主軸とは成り得なかった。
  関ヶ原で激戦が繰り広げられると、義
  弘は本当ならば東軍に付属していると
  ころであったことからか、刃を交えるこ
  とをせず、鉄砲でさも発砲しなかった。

  石田三成の出陣要請も拒否した義弘
  は、小早川秀秋の寝返りにより、西軍
  が総崩れとなるとようやく重い腰を上
  げ、島津軍に撤退命令を出した。

  しかし、後ろに引かず前方に向って逃
  亡するという前代未聞の戦術を取っ
  た。
  島津軍の先鋒に布陣していた福島正
  則は、島津軍の突撃に対し、一切攻撃
  することなくやり過ごした。

  先の朝鮮の役で見た島津軍の勇猛振
  りを知っていたため、合戦全体の勝敗
  は決していたことからこれ以上の犠牲
  者を出すことを慮っての行動であった。

  しかし、このことが後に福島氏改易の
  遠因ともなってしまう。
  
  島津軍が家康本隊に向って突撃してき
  たことから東軍は騒然としたが、島津
  軍はそのまま家康本隊の横を通り抜け
  、戦線離脱へとひた走った。
  これを見た徳川軍は島津軍追撃を行っ
  たが島津軍の殿軍は戦国一を誇る見
  事な戦術であり、追尾する敵に対し、
  撤退する本隊を援護すべく、最後尾の
  兵士が一まとまりとなって、所々で離脱
  し、伏兵し、追尾隊が横合いに差し掛
  かるとそれを強襲し、敵を討ち取るとい
  う恐ろしいものであった。

  ステガマリ戦法という追撃撃退の戦術
  は、最後尾の兵士たちが捨石となて、
  その場に踏みとどまり、追撃を手惑わ
  せる壮絶な戦術である。
  この戦術に徳川軍もまともに喰らい、
  島津鉄砲隊の強襲にあい、家康の四
  男・松平忠吉、徳川四天王の一人、井
  伊直政らが銃弾を浴び、重傷を負っ
  た。

  こうして、島津軍本隊はまんまと戦場離
  脱に成功し、そのまま、宇喜多氏の船
  団に相乗りして、海路、本国の薩摩へ
  と立ち戻ったのである。

■薩摩に立ち返った義弘は、ただちに家
  康に書状を発し、名目上は豊臣秀頼の
  一家臣である家康が島津討伐を行うこ
  とはできないと踏み、所領安堵を願
  った。
  家康も西国南端まで兵馬を進めるのは
  面倒との見通しを立て、これを許した。
  この関ヶ原の合戦後、義弘もようやく腰
  を落ち着けることができ、長き戦乱での
  活躍もお役御免となり、平穏な余生を
  送った。