にいろ ただもと
1536?-1610
享年75?歳。
名称:次郎四郎、刑部大輔、武蔵守
居城:薩摩大口城
■新納祐久の子。
父・祐久以降、島津家に仕え、常に
島津軍の先鋒を務め、肥後国境付近
を転戦した。
■忠元は島津義久の側近として活躍し、
1562年の北原氏攻め、1574年の肝付
氏、伊地知氏攻め、1581年の肥後相
良氏攻めなどで多大な軍功を挙げた。
肥後攻めから肥前攻めへと移行し、龍
家を押さえ込むと鉾先を豊後大友氏に
向け、島津氏による九州制覇という偉
業に従事した。
■1587年、豊臣秀吉による九州平定戦が
敢行されると忠元は肥後八代に布陣し
てこれを迎え討ったが豊臣軍総勢25
万の前には、自慢の武勇も発揮できず
に後退。
肥後人吉に撤退を余儀なくされた。
その後も豊臣軍の快進撃は続き、、忠
元はさらに南下し、大隈大口に踏みと
どまると徹底抗戦を主君・義久に進言
したが、容れられず、島津家は本国薩
摩での決戦を避け豊臣氏に降伏した。
■島津氏の九州制覇達成のために奮戦し
てきた忠元であったが、豊臣氏政権下
に島津氏が組み込まれると老齢を理由
に本国留守居役を勤めるようになり、
朝鮮の役には不参加。
そのまま活躍の場を失い平穏な晩年を
送り、1610年に没した。
新納 忠元
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