まつだ のりひで
?-1590


名称:尾張守


■松田左馬助盛秀の子。
  松田康光の実兄である。

■1550年代に松田家の家督を相続した憲秀は、後北条家の宿老として活躍。
  1559年頃の小田原衆筆頭を勤め、3000貫弱もの大知行を領していた。
  この知行高は、北条幻庵に次ぐ、家中第二位であり、その松田一族は北条家で重職を勤めるなど北条家内で栄華を誇った。

■憲秀の二男・新六郎政堯は、1575年に伊豆郡代笠原氏を継ぎ、駿河戸倉城の城将となったが、甲斐武田氏の誘いに乗り、北条家から離反。武田勝頼に仕えた。

  しかし、武田氏が滅亡すると行き場を失い、後に北条家に帰属している。

■1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が敢行されると北条家は、小田原城にて重臣を集めて、小田原評定を催した。その席で憲秀は、徹底篭城戦を主張し、北条氏照・氏邦兄弟が主張する徹底野戦の主張と真っ向から衝突した。

  結局、憲秀らが主張する徹底篭城戦の案が主君・氏政に入れられると憲秀は、早川口を守備したが、いざ合戦が始まると、豊臣方の堀秀政の誘いに乗り、伊豆・相模二ヶ国を与えられる約束を得て、内通した。
  この北条家筆頭家老である憲秀が豊臣家に内通した背景には、先年、憲秀が武田勝頼に内通した嫌疑をかけられ、面目を失う恥辱を味わう事件が起きており、それを根に持っていた憲秀が、鬱憤晴らしに豊臣方に内通したというのが真相である。

  この憲秀の内通は、憲秀の嫡男・直秀が父の不忠に激怒し、主君に密告したことで露見した。この一件で一枚岩であった北条家家臣団に互いに嫌疑の念を抱かせる結果を招き、北条家降伏の時期を早める結果となった。

  その後、北条氏が降伏し、終戦となった7月5日、北条家の筆頭家老という重職に就く憲秀に対し、秀吉は切腹を命じ、憲秀は主君・氏政、氏照とともに自刃して果てた。