黒田 孝高
くろだ よしたか
1546-1604
享年59歳。

名称:万吉、小寺官兵衛、勘解由次官、
如水(じょすい)


居城:播磨国府山城→山城山崎城→
豊前中津城

■播磨国飾東郡姫路の生まれ。
父は、播磨姫路城将・小寺職隆。
母は、小寺政職の養女で、明石城主・
明石正風の娘。
孝高は、16歳にて、御着城の小寺政
職の近習として仕えた。

■1567年、孝高22歳の時、小寺氏の姪
で志方城主・櫛橋氏の娘を正室に迎
え、父・職隆に代わって、家老となっ
た。

■1575年、孝高30歳の時、織田氏の智
将・羽柴秀吉から調略を受けると孝高
はこれを契機として、主君・小寺政職
に対して織田氏への付属を進言した。
孝高の説得に従った政職は、孝高を
小寺氏の使者として岐阜の織田氏へ
と使わした。
これで毛利方の小寺氏が織田方へと
寝返ったことになり、毛利氏はこの情
勢を危機的であるとして、海路3000
の軍兵を派兵。
小寺氏の御着・姫路の両城を攻めた。
この小寺氏の窮地を救ったのが孝高
で、巧みな戦術で毛利軍を撃退。
この一連の戦いで孝高は武名を天下
に知らしめた。

■毛利氏の毒牙を播磨国から一掃した功
績を織田信長は非常に高く評価し、小
寺政職を評する一方で、キリシタンで
ある孝高と親交がある摂津の有岡城
主・荒木村重を通して孝高を賞して
いる。

1577年、孝高は二心のない所を織田
氏に示す必要性を感じ、嫡子・松寿丸
(しょうじゅまる)を人質として、信長の
下へ差し出している。
織田氏もいよいよ近畿地方の争乱を
鎮め、中国地方へと勢力を伸ばす動
きを見せ、智将・羽柴秀吉を播磨に
投入。
孝高は秀吉の案内役を務め、姫路城
に入った。

■その後、思いもよらず、親友の荒木村
重が織田氏に謀叛を起こした。
この混乱の中、孝高は主君・小寺政
職に織田氏への忠誠につとめ、毛利
氏に帰属する不利を説き、さらに摂津
の有岡城で挙兵している荒木村重を
説き伏せるために摂津へと向った。
だが、村重の謀叛の決意は固く、孝高
は説き伏せることに失敗して、有岡城
内の牢に閉じ込められてしまう。
秀吉などの必死の奔走によって、投獄
から一年余経って、孝高は救出された
が、右足の自由を失うという苛酷な
結果となった。

■結局、荒木村重の謀叛は、織田軍の大
軍の前に鎮圧され、村重はかろうじて
落ち延びたが、村重の一族はことごと
く見せしめのため、惨殺された。
この一連の謀叛騒動で、孝高の主君だ
った小寺政職は優柔不断な行動を見
せたために織田信長ににらまれ、身
の危険を感じた政職は城を捨てて逃
げてしまった。
これより、孝高は新たに織田家の一武
将となり、秀吉麾下の武将として、活躍
していくことになる。
1580年、孝高は秀吉から破格の待遇
を得て、播磨に1万石の知行を拝領し
、国府山城主となった。
この時、秀吉には長年、秀吉の出世劇
に貢献してきた軍師・竹中半兵衛重治
が1579年に病没していた。
このため、秀吉は新たに頼りとする軍
略の達人を必要としていた。
このような時期にかねがね類希な軍略
の才を見せる黒田孝高が主君の逃亡
によって、秀吉麾下となったことは、秀
吉にとって極上の幸運であった。
孝高も秀吉の空白となっていた軍師の
席に就くこととなり、大いに活躍できる
場を与えられたことは幸運であったこと
だろう。

■1582年、備中高松城攻略に従軍してい
た孝高は、歴史の大きな転換期を目前
とする。
本能寺の変の急報が羽柴軍の下に届
いたのである。秀吉の素早い判断で毛
利氏との和睦が実施され、蜂須賀正勝
とともに孝高は毛利氏との講和に
奔走。
和議締結後、羽柴軍は中国大返しを敢
行。この時、主君・信長の死に落胆す
る秀吉に対して孝高は”殿、今こそ好
機の時ですぞ”と耳打ちしたという。
その後は、いうまでもなく山崎合戦で見
事、主君の仇討ちをして、明智光秀を
討滅。
織田家の実権を握った秀吉は、反秀吉
派の柴田勝家や滝川一益、織田信孝、
織田信雄らを賤ヶ岳の戦い、小牧・長
久手の戦いで押さえ込み、天下人へと
ひた走った。
孝高も小寺から黒田へと姓を変えて、
大活躍し、秀吉が頼りとする戦国屈指
の名軍師となった。

■その後も孝高は、秀吉の名軍師として
深く軍略にかかわり、四国征伐、九州
征伐で如何なく、そのすぐれた軍才を
発揮した。
九州征伐では軍奉行となり、豊前鎮定
に成功したが、長宗我部軍ら四国勢が
戸津川の戦いで敗戦すると、孝高は秀
吉からその責任を問われて叱責を喰ら
った。
九州平定後、孝高は中津12万5000
石に封じられ、中堅大名の仲間入りを
果たした。
しかし、播磨の領土から九州へという
遠方への移封は必ずしも秀吉の気ま
ぐれからではない。
九州外様の諸大名の抑えという一面を
持つ反面、
孝高の才覚を秀吉は、密かに恐れてい
たという。孝高は野心家であり、秀吉が
苦慮して考え出した妙策が、孝高に聞
いた答えとことごとく一致していたこと
から孝高の器は天下人に匹敵する器
として、秀吉は孝高を少なからず敬遠
する動機となった。

秀吉は「わしの後を継ぐものは官兵衛
しかいない」と述べており、「世に恐ろし
きは徳川と黒田なり」とその実力のほ
どをしっかりと認めている。

それだけに都や秀吉の居城の大坂に
近い播磨に領有する黒田孝高を遠方
の九州の地に移封させたことは、地理
的戦略上の関係もあったと思われる。

■1589年、秀吉から自分が遠ざけられた
と察した孝高はあらぬ嫌疑を秀吉から
かけられないように布石として病を理
由に隠居し、黒田如水と名乗った。
そして、黒田家の家督を嫡男の黒田長
政に譲り、少しでも秀吉からの厳しい
監視を逃れる方法に出た。

■1600年、関ヶ原の戦いが起こると如水
は、嫡男・長政に東軍へつくように進言
し、自らは九州の自領にて、軍勢を率
いて、中立を守りつつ、独断で九州制
覇を目指した。
東軍・西軍が中央で熾烈を極めた戦い
を行っている間に如水は九州の諸豪
族を束ねて、中央へとなだれ込み、一
挙に天下を手中にするという算段であ
った。
しかし、如水の予想ははずれた。あま
りにも早い決着により、関ヶ原争乱は
幕を閉じ、如水は撤兵せざるを得なく
なった。

後になって、嫡男・長政が関ヶ原決戦
で目覚しい活躍をしたことを聞いた如
水は、「このうつけ者めが!」と息子を
なじったという。
最後の最後まで天下人になる野望を
見せた如水は、1604年、病床に伏し、
山城伏見にて没した。
享年59歳。