みよし ながよし

1522-1564 享年43歳。

■千熊丸、 仙熊 、利長、範長、孫次郎、三筑

山城国下五郡の守護代・三好元長の嫡男として生まれる。

正室は、波多野稙通の娘。継室は遊佐長教の娘。

従四位下伊賀守、筑前守、後に修理大夫。

三好筑前守=略して三筑の名称で多くの資料に残る。

長慶=ちょうけいと呼ぶことも多い。

長慶の父・元長は、細川晴元配下の有力重臣の一人で、主君・晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼす功績を上げた。元長は本国の阿波だけでなく、山城国にも勢力を持ち、主君晴元をも凌ぐとまで言われた。

元長の権勢の勢いを恐れた晴元とその一族、三好政長、木沢長政らは、策謀して一向一揆を蜂起させ、元長を襲撃させた。

1532年享禄5年6月、元長は一向衆徒に襲われ惨殺された。長慶は当時10歳で堺にいたが、一向衆の襲撃前に辛くも難を逃れ、母とともに本国の阿波へと避難した。

本国にたどり着いた長慶は、すぐさま元服した。当時は11歳で元服するのが恒例であったためである。13代足利将軍となった足利義輝や細川昭元などが11歳で元服を果たしている。

同年8月、長慶は、一向衆と戦い、摂津国越水城を奪還している。翌1534年天文3年、本願寺に味方している細川晴元の軍と戦い、10月には尼崎にて晴元方の三好政長と戦った。この時、河内守護代の木沢長政が双方の仲介を成し、年少の長慶の反撃とのことで、反逆の兵の罪を許される。長慶は晴元へと帰参した。

1536年天文5年3月、長慶は晴元麾下として、細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る摂津中島の一揆勢を攻撃したが、敗北した。長慶は木沢長政の陣営に逃れ、長政や三好政長と共に再度中島を攻撃し、一揆軍の殲滅に成功する。

1539年天文8年1月長慶は、主君・細川晴元のお供をし、その褒美として、前年に尾張の織田信秀より献上されていた鷹を賜った。

長慶は酒宴を開き主君晴元を招き、其の席で室町幕府の料所である河内十七ヶ所(守口市)の代官職を自分に与えるよう迫った。晴元は了承せず、長慶は幕府へ訴求した。この料所は、父・元長が任命されていた土地で、長慶は、自分に其の継承権があると自負していた。しかし、元長没後、其の地は三好政長が任命されていた。

長慶は、2500の手勢を率いて、京都へ進出し、幕府や将軍足利義晴に迫った。一連の動きに対して、長慶と政長の和睦を図ろうと周囲は奔走するが、一向に収束が着かず。長慶は将軍義晴が頼った六角・武田ら諸大名の反抗を恐れて、京都退いたが、本国阿波へわ引き上げず、摂津に本拠を構え、京都の情勢を伺った。

三好長慶像
三好長慶の花押

三好長慶画(英雄百人一首)
三好家系図 京都小笠原家の長興から派生した三好家は、
戦国乱世を経て、西国の雄へとのし上がって行く。

三好家系図<拡大図>

三好長慶の曾祖父・三好之長は、細川澄元を補佐し、上京を果たし、細川高国を近江に逐った。

細川高国は、逆襲に転じて、再上洛を果たし、追われた三好之長は自害し、細川澄元は阿波へと逃亡し、同地で没した。同時に京を追われた将軍・足利義稙も阿波に逃れ、同地に没した。

細川高国は、将軍・足利義澄の遺児で赤松氏に保護されていた足利義晴を京に呼び寄せ、室町幕府十二代将軍に就かせた。

足利義稙の養子・足利義維(堺公方)、細川澄元の子・細川晴元、三好元長(長慶の父)が結託して、堺に上陸すると将軍・義晴と細川高国は、近江へ逃亡した。

その後、細川高国は、摂津で堺公方支持一派と戦い、討ち死にした。

一方で、堺公方一派も内部分裂し、三好元長は敗死、足利義維は阿波へ帰還した。

足利義晴と細川晴元が和解し、幕政に戻った。

足利義晴は、子の義輝に将軍の座を譲り、彼を十三代将軍とした。

次いで、細川高国を後継した細川氏綱と結び、細川晴元と対立したが、のちに再度和睦を成した。

三好長慶の勢力拡大に伴い、細川晴元との対立が表面化する。

長慶は、細川氏綱と手を組み、上洛すると、義晴・義輝は、細川晴元と共に近江へ逃亡。義晴は同地で没した。義輝は、後に長慶と和睦して、京に復帰を果たす。細川晴元はこの時、見捨てられ、没落す。

細川氏綱が最後の室町幕府の管領となった。

ほどなくして、氏綱が没し、次いで、長慶が没した。

長慶は養子の義継に家督を譲っている。

義継は、松永久秀、三好三人衆と図って、将軍義輝を討った。

三好義継・松永久秀は、三好三人衆と対立。三好三人衆は、足利義維の子・義栄を擁立して、14代将軍にする。三好義継、松永久秀は、上洛してきた織田信長に従った。ほどなくして、三好三人衆は織田信長に敗れ、四国へと逃亡した。

織田信長は、足利義昭を15代将軍に就かせた。

三好義継は、織田信長から河内半国と若江城を与えられたが、足利義昭が織田信長と対立すると、義昭側に付き、義昭を匿ったため、織田軍に攻められ、自害して果てた。

細川晴元の子・昭元は信長の妹婿となり、落ちぶれながらも、乱世を生き抜き、天下統一の世を見届ける。

三好三人衆(三好政康、三好長逸、岩成友通)のその後は、政康は、一説に、豊臣秀吉・秀頼に仕えて、大阪夏の陣で戦死したとされる。

長逸は、本願寺と組んで織田信長と戦ったが、最後は消息不明。

岩成友通は、足利義昭に呼応して、織田信長と戦うも、淀城にて、細川藤孝に攻められ、滅亡した。