みよし よしおき

1542-1563 享年22歳。

■通称:孫次郎、慶興、義長、従四位下、筑前守

1542年天文11年、三好長慶の嫡男として生まれる。

1552年12月、元服して、孫次郎慶興と名乗る。

1559年永禄2年2月、父・長慶とともに上洛を果たし、3月には正式に13代将軍・足利義輝に謁見し、仕えている。

同年12月には、義輝より「義」の一字を賜り、義長と名乗る。

1560年永禄3年1月、従四位下・筑前守に叙任・任官された。

父・長慶が河内飯盛山城に移ると義興は、摂津芥川山城を任された。

長慶はこの居城の移動によって、内外に三好家の家督を行く行くは義興に譲る意向であることを示した。

1561年永禄4年、義興は、父・長慶、執事の松永久秀とともに桐の紋(足利将軍家の家紋)の使用を許されている。

また、御供衆・相伴衆に任じられる。義興は着実に足利幕府政権の要職に就きつつあった。

1561年11月、細川晴之を大将とする六角義賢らの軍勢2万余りが京都へ侵攻。義興は兵7千を率いて梅津に布陣。松永久秀も兵7千を率いて西院に布陣した。

2万余りの軍勢とあって、三好軍は劣勢であったが、久秀の巧みな反撃によって、主力の六角軍を撃破。永原重澄ら六角諸将を討ち大勝利を飾る。

惜しくも六角義賢を討ち漏らしている。

この将軍地蔵山合戦の勝利により、義興は内外にその知勇を示した。

六角義賢は、猛勇で鳴る畠山高政と連携を図る。畠山高政が攻め込んでくると久米田の戦いで義興の叔父・三好実休が戦死する。このため、三好軍は、一時、京都から足利義輝を男山八幡に避難させる。

義興は久秀とともに山崎に布陣した。

この戦況の下、六角義賢は、京都へ侵攻占拠した。義興は、まず畠山軍と対峙し、1562年永禄5年5月下旬、教興寺の戦いにて、畠山軍に大勝した。

勢いづく三好軍の動きをみた六角軍は、京都から撤退した。

6月義輝は、京都へ帰京を果たす。義興・久秀らは将軍より褒美を賜った。

1563年永禄6年6月、義興は病に倒れた。曲直瀬道三などが治療にあたったが、病状は悪化し、8月芥川山城にて没した。

三好家の家督は、長慶死後、義興の従弟の三好義継が継いでいる。

三好家系図 京都小笠原家の長興から派生した三好家は、
戦国乱世を経て、西国の雄へとのし上がって行く。

三好家系図<拡大図>