たかやま うこん
1552-1615 享年64歳。
■彦五郎、右近大夫、右近允、右近助、南坊等伯、ジュスト(ユスト)、従五位下、大蔵少輔
キリシタン大名として知られる。
父は摂津国の国人領主・高山友照。母は洗礼名マリア。摂津国の国人領主・中川清秀の従兄弟とされる。
高山氏は甲賀五十三家の一つと称され、父・友照の代に三好長慶に仕えている。
右近は友照の嫡男として生まれ、わずか10歳にしてキリスト教の洗礼を受けている。1564年永禄7年三好長慶が没し、三好家は内乱状態となり、摂津国は池田氏、伊丹氏などの有力豪族がせめぎ合う戦乱状態となる。
そんな中1568年永禄11年、織田信長が足利義昭を擁して、京都に乱入すると、畿内は急速に織田方へと収束が進む。
足利義昭の直臣・和田惟政が摂津国高槻城へ入ると、伊丹親興、池田勝正の三人による統治が成る。摂津三守護鼎立である。
右近は父・友照とともに和田惟政に仕えることとなる。
惟政が没すると、子の惟長が家督を継いだが、若干17歳で年若く、陪臣たちの意見に翻弄され勝ちとなり、高山父子と切り合いの乱闘を起こす。
高山友照は同僚の荒木村重の支援を事前に勝ち取っていたため、この混乱に乗じて、荒木村重の支援を得て、惟長を追放した。以後、高山父子は、荒木村重に属した。
惟長は甲賀の山奥まで落ち延びたが、同地で没した。
1578年天正6年10月末、荒木村重が織田信長に反旗を翻した。右近は村重の与力を勤めていたが、村重の反旗には同心しかねていた。とはいえ、村重に人質を取られていたため信長方として戦うわけにもいかず。
そうこうしている間に、右近は、信長に領土返上を申し出て、村重陣営からも身を引き、中立の立場を取った。
結果的にこの右近の村重離れが影響して、村重方は内部崩壊し、中国地方へ遁走した。
右近の苦し紛れの決断が功を奏して、荒木の反乱が鎮まったことから、信長は所領安堵を約束し、2万石から4万石へ加増まで褒美として与えた。
信長が摂津へ出陣してくると、右近はこれを出迎え謁見した。信長は右近の忠義をたいそう気に入り、小袖を与え、黄金30枚を下賜した。
右近は信長が信頼するお気に入り武将の一人となり、その後、活躍することとなる。1580年には信長の安土城建設に当たって、右近にも邸宅の割当があった。
1581年8月右近は信長の使者として、鳥取城を攻めていた羽柴秀吉の陣へ赴き、戦況視察を行い、鳥取情勢を信長に逐一報告した。
1582年天正10年3月には、武田攻めの軍に参加し、甲州の地に手、信長が諏訪に布陣した際に、右近も西国諸将の一人として、これに帯同した。
1582年天正10年6月2日、本能寺の変によって、信長が没すると、右近は、明智光秀の誘いに乗らず、羽柴秀吉陣営に参加する。
山崎の戦いでは、右近は羽柴軍の先鋒を勤め、中川清秀や池田恒興とともに奮戦し、明智軍を打ち破っている。清洲会議において、その戦功を認められ、加増を賜っている。
賤ヶ岳の戦いでも、中川清秀とともに戦場の真っ只中で、敵軍とにらみ合いを続け、佐久間盛政の猛攻を受けて、敗退し、命からがら羽柴秀長の陣営に逃れた。同じ戦地にいた中川清秀は、盛政の猛攻の前に討ち死にしている。
その後も秀吉の天下統一戦に参軍し活躍した。
小牧・長久手の戦いや四国征伐において、羽柴軍の一陣を率いた。
右近は、キリシタンとして、人徳豊な人物であったらしく、彼の影響を受けてキリシタンになった武将も数多い。有名な武将には、蒲生氏郷、黒田孝高などがいる。他に細川忠興や前田利家など、洗礼を受けなかったが、キリシタンに好意的となった武将は多い。
前田利家、利長に仕えるようになり、築城の名手であったことから、北陸の地に彼の手がけた城郭は数多い。
1614年慶長19年、加賀にいた右近は、徳川家康のキリシタン国外追放令を受けて、加賀を退去した。
長崎から家族とともに追放され、内藤如安らと共にマニラへと船で送られた。
マニラに到着後わずか40日で病没した。