あしかがけ
室町幕府を開き、武家中心の世の中となった中世日本において、統治者として君臨した。清和天皇七代の孫で源氏の嫡流・八幡太郎義家が下野国の足利基綱の娘に産ませた義国が源氏の流れをくむ足利家の始まりとなる。
足利義国の三人の息子のうち、長男・義重は新田氏を称した。
次男・義康は足利氏を称した。
清和源氏の本宗家・源頼朝が平氏打倒に立ち上がると足利義康もこれに呼応し、参陣し、鎌倉幕府の創設に大いに貢献した。
鎌倉時代末期、執権北条氏が権勢を振るう中、足利氏は、御家人最大勢力を誇った。足利氏八代目当主となった足利高氏(のち尊氏)は、幕府の命により、後醍醐天皇が旗上げた鎌倉幕府打倒の挙兵鎮圧に上洛する。
そこで後醍醐天皇の才気に魅了された高氏は後醍醐天皇側に付く。
これを契機として、鎌倉幕府は急速に勢力を失い、新田義貞の軍に破れ滅亡する。
1334年、後醍醐天皇による建武の親政が始まる。親政では、公卿たちの所領拡大が進められ、武家たちの不満が続出。
尊氏は自ら武家たちのために奮闘し、所領安堵の調停に乗り出す。
後醍醐天皇と対立するも、北朝を擁立して1338年、尊氏は征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開く。
南北朝の騒乱を経て、室町幕府は三代目将軍・足利義満の時代に全盛期を迎える。
中国との貿易で莫大な富を得て、金閣寺を建立し、准三后にまで昇り、天皇の位をも簒奪するかのような権勢を誇った。孫を天皇にする野望を抱くも寿命が尽き果たせず。
荒ぶる武力を誇る武家たちを統合することは難しく、歴代の室町幕府の将軍は、苦難を味わうこととなる。
8代目には応仁の大乱を引き起こし、全国へとその火種が飛び火し、戦国乱世の幕開けを告げる。
足利幕府による社会秩序の復権を目指した13代目将軍・足利義輝は三好三人衆、松永久秀、三好義継ら奸雄たちに攻められ非業の死を遂げた。
織田信長は当初、足利義輝が抱く社会秩序の再建に追従しようとしたが、義輝が無残に横死すると、室町幕府に見切りをつける。
15代目・足利義昭を奉じて、近畿に覇を唱えたが、信長の意に従わぬ義昭と戦うこととなる。
1573年義昭は、信長に敗れ、追放の憂き目を見る。
ここに室町幕府は滅亡。武家の名族・足利氏も歴史の表舞台から幕を引くのであった。