明智光秀

「時は今、雨が下しる五月かな」

(ときはいま、あまがしたしるさつきかな)

「とき」とは、光秀が土岐氏の出であることを指すものと思われる。

「雨が下しる」とは、天下を指すと思われる。

すなわち、土岐氏がいま、天下を取る時期に来たという決意表明とも受け取れる句である。

 

この光秀の句を受けて、連歌の会に参加していた者たちが後をこう続けた。

西ノ坊行祐(にしのぼうぎょうゆう)――時の僧侶最高位に座し、政界においても影響力を持っていた。

「水上まさる、庭の松山」

(みずかみまさる、にわのまつやま)

「庭」とは、朝廷を指し、あなたが活躍するのを朝廷は待っていますよと光秀の句を受けています。

 

さらに、この句の後を付けたのは、

里村紹巴(さとむらじょうは)――公家との関わりが深く、当世の連歌界における第一人者

「花落つる、流れの末をせきとめて」

(はなおつる、ながれのすえをせきとめて)

天下に花咲く栄華を極める織田信長を討って、信長の流れをせき止めてほしいと求めている。

さらに、この句に畳み掛けるように

大善院宥源(だいぜんいんゆうげん)――明智光秀と親交が深い

「風に霞を、吹き、おくる暮れ」

(かぜにかすみを、ふき、おくるくれ)

「霞」は、淀んだ信長の暗黒政治を風で吹き飛ばす時ですよと勧めた。