おがさわら どうせっさい

1525?-1588? 享年64?歳

別名:孫次郎、貞種、玄也

信濃守護にして、府中小笠原家当主・小笠原長棟の四男として生まれる。

母は浦野弾正忠の娘。

信濃国林城にて生まれる。1550年、武田侵攻によって、小笠原家は信濃の領国を追われることとなる。

兄・長時、信定に従い、1567年永禄12年1月に 洞雪斎は、上洛を果たす。

洞雪斎は1569年、兄・長時、甥の貞慶とともに三好軍に加わり、将軍・足利義昭を攻める。(本圀寺の変)

この戦いで敗走した小笠原一門は、その後、越後の長尾景虎の後援を得て、信濃侵攻を拡大させている甲斐武田氏と対抗した。

1582年天正10年3月、甲斐武田氏は織田・徳川連合軍の前に滅亡した。その後、同年6月に本能寺の変が起こると、甲斐・信濃の領国は「天正壬午の乱」を引き起こし、大乱となる。

信濃川中島四郡を領していた織田家家臣の森長可が北条、上杉、徳川の侵攻に苦しみ、退去した。空白地となった信濃へ雪崩を打って入ったのが上杉景勝であった。この時、北信地方への派兵の際、洞雪斎は、信濃守護一門として、擁立され、信濃筑摩郡(信濃府中)の小笠原家旧臣たちや安曇郡の仁科氏遺臣の勢力結集に利用された。

洞雪斎の擁立に際しては、小笠原家の旧臣・二木氏一族が仲介したという。

また、小笠原長時のかつて養子であった大日方長利は、武田家家臣となっていたが、武田家滅亡後、大日方氏は、小笠原貞慶方と洞雪斎方の二派に分かれた。

上杉景勝は、洞雪斎に家臣の梶田・八代の両名を付け、200騎余を与えて、信濃制圧を進めた。

信濃深志城を占拠していた木曽義昌を放逐し、小笠原家の居城の奪還に成功している。

木曽義昌の深志城支配を快く思っていなかった筑摩・安曇両郡の諸侯たちは、洞雪斎に協力し、奪還戦を成功に導いたが、その後、洞雪斎を操る梶田・八代の両名を嫌って、両郡は再び離反した。結果として洞雪斎は、領国経営に失敗した。

こうした状況の中で、小笠原家旧臣たちは、東海道を制圧し甲斐、信濃への侵攻を進めていた徳川家康に目をつけた。本家筋の小笠原貞慶が徳川家康の信任を得ていたことから、貞慶への深志城帰還運動を展開した。

洞雪斎は自身に人望薄いことを悟り、貞慶と交渉し、深志城を明け渡した。

洞雪斎は、小笠原家が旧領に返り咲いたことを見届けて、信濃を去った。

その後の動向は不明であるが、1588年天正16年ごろまで上杉氏の庇護下で活動していたとされる。

参考:Wikipedia 小笠原 洞雪斎