あしな もりうじ

1521-1580 享年60歳。

別名:幼名は、四郎丸。平四郎 号は、止々斎。

官位:従四位下、修理大夫

父は、蘆名家15代目当主・蘆名盛舜(あしなもりきよ)、母は、金上盛興の娘。

蘆名盛氏は、蘆名家十六代目当主。

正室は、伊達稙宗の娘。

実子に盛興、子女(結城義親室)

養子に盛隆(二階堂盛義の子)

1541年(天文11年)父・盛舜から蘆名家の家督を譲られる。

同年、山内氏を攻め討ち、会津方面にて、勢力拡大を成す。

さらに同年、伊達氏において天文の乱が起こると、当初は伊達稙宗方に味方したが、1547年(天文16年)稙宗方の田村隆顕との間で、福島の中通りの地を巡って衝突したため、盛氏は伊達晴宗方へ転じた。

盛氏の晴宗方への付随は、乱の勝敗の決定打となり、晴宗方の勝利に終わった。

1550年(天文19年)、盛氏は本格的に福島仙道(中通り)への進出を開始し、田村隆顕と死闘を繰り広げる。田村氏側には、常陸の名門・佐竹氏の支援があり、盛氏の領土拡大作は思うように進まなかった。盛氏は、佐竹氏と対立する相模の北条氏康や関東進出を図る武田信玄と同盟を結び、外交戦略の対抗策とした。

盛氏は、内政面にも力を入れ、領内の金山開発を勧めた。さらに簗田氏を商人司に起用し、会津領の流通支配の強化を図った。

1561年(永禄4年)、庶兄・氏方が謀反を起こすとこれを鎮圧した。

同年、盛氏は家督を嫡男の盛興に譲り、自身は、大沼郡岩崎城に隠遁し、剃髪して止々斎と号した。だが、隠居後も内政・軍事・外交と蘆名家の家裁一切を盛氏は掌握し、家中の統制に奔走した。

1563年(永禄6年)、須賀川城主・二階堂盛義との間で戦いを進め、岩瀬郡へと領土拡大を図った。盛義は晴宗の長女・阿南姫を娶っていたため、伊達軍が二階堂氏救援に出張ってきたため、盛氏は数度に渡って、桧原(ひばら)の地にて合戦に及んだ。この時は、戸山城主・穴沢信徳が活躍し、撃退に成功している。

1566年(永禄9年)、二階堂盛義が嫡男・盛隆を人質に蘆名家へ差し出して降伏したため、盛興の正室に伊達晴宗の四女・彦姫を迎える条件で、蘆名・伊達の両家の間にも講和が成立した。

1574年(天正2年)、伊達実元と共に盛氏は、田村氏傘下の二本松義国・大内義綱を打ち破り、宿敵・田村清顕を従属させることに成功した。

同年6月、蘆名家当主であった蘆名盛興が29歳の若さで急死したため、蘆名家中で直系が無く、やむを得ず、養子・盛隆に盛興未亡人を娶らせ、蘆名家の家督を継がせた。盛氏自身は、後見人となり、引き続き政務を執った。

1575年(天正3年)、娘婿・結城義親を支援して、白河結城氏の家督相続問題に介入し、外交面でも盛氏は辣腕を振るった。

1578年(天正6年)上杉謙信が急死すると、その後に起こった上杉家中の御館の乱に乗じて、越後へ遠征するなど積極的な軍略を示した。

盛氏は、内政においては、1560年~1576にかけて、6度もの徳政令を発布し、経済統制にも強権を示した。

盛氏は、蘆名家の隆盛を一代で築き上げたが、晩年は、蘆名盛隆との不和対立を招き、田村・佐竹との長年に渡る抗争による疲弊によって、蘆名家の盤石を築くまでに至らなかった。蘆名家の衰退を憂いつつ、盛氏は、1580年(天正8年)死去した。享年60歳。