板部岡 江雪斎
いたべおか こうせっさい
1537-1609
享年73歳。


名称:融成(とおなり)、越中守、
    岡野江雪斎


■江雪斎の出自には、二説があり、
  一つは、伊豆下田の出身で真言宗の
  僧侶であったが、そのすぐれた書簡
  作成能力をかわれて、北条氏康の
  右筆として活躍。

  書簡管理の役職だけに留まらず、
  外交僧としても活躍し、最終的に
  北条家の評定衆に列するなど重役
  に大身する。

  書簡の上では、単に江雪と著名した。
  もう一つは鎌倉幕府の執権を務めた
  伊豆北条家の末裔といわれ、伊豆
  田方郡田中郷を領有したことから
  田中姓を名乗り、江雪と名乗るに
  至って、板部岡能登守康雄の遺領を
  継ぎ、板部岡姓を名乗ったという。

  いずれにせよ、北条家にとって、重要
  な外交戦術において、活躍したすぐれ
  た外交官であった。

■1573年、甲斐守護・武田信玄が没した
  との噂が関東北条家まで流れてくると
  その真偽のほどを確かめるべく、北条
  家の使者として江雪斎は、甲斐に赴
  いた。

  ”三年間、我が死を隠せ”との信玄の
  遺言があったことから武田方は、信玄
  の実弟・武田信廉を信玄と偽って、
  江雪斎に引き合わせた。

  江雪斎はこの謁見の席で信玄は生き
  ていると勘違いして、本国北条氏に
  信玄存命中と知らせ、しばらくの間、
  関東の地では信玄は1573年以降も
  生きていたと信じられていたという。

■1582年6月、天下人・織田信長が本能
  寺の変で倒れると甲州の地まで支配を
  及ぼしていた織田氏は、関東攻めの
  軍を上野に集結させていた。
  その関東攻め総大将を務める滝川
  一益と対陣していた北条氏は、織田家
  の主君が誅殺されたことで、浮き足立
  つ織田軍を北条軍は撃滅。
  甲州の地が空白化すると東海の徳川
  家康がその乗っ取りに出兵してくると
  北条氏も遅れをとるまいと出兵。
  甲斐国にて徳川軍、北条軍が対陣する
  とこう着状態を打開して和議に至る。
  この和議の席で北条氏の外交官として
  活躍したのが江雪斎である。
  北条氏直の妻に家康の娘・督姫を嫁が
  せる案を提示して、見事成功させた。

■1589年、北条家は信州真田氏と沼田領
  の帰属問題でもめると、この問題を解決してもらうべく、

江雪斎は単身、大坂にいる豊臣秀吉の下に赴く。

  秀吉は、関東の片田舎から出てきたわりに

礼儀作法が成っているとして江雪斎を高く評価し、ただちに沼田問題を裁決した。

  江雪斎はこれにより、北条家を開運させたと喜んだが、

それもつかの間、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲の横暴により、沼田領を奪取してしまう。
  この横暴に秀吉は激怒し、小田原征伐が勃発してしまう。

■1590年、主家・北条氏が滅亡すると江雪斎は主家を失い落胆するも

秀吉にその外交手腕をかわれて、江雪斎は岡野姓に改名。
豊臣家家臣として再出発を果たす。

  その後、1600年に徳川家康が中心となる会津征伐が起こると、

これを契機に江雪斎は徳川家に仕えた。
  これ以降、江雪斎の血統はは徳川家旗本となり、江戸時代を生き抜いた。