戦国乱世を終わらせ、天下泰平の世の中を久しく保つ社会構造を作り上げたのが、徳川家康である。

江戸幕府は、単なる権力掌握の賜物で作った代物ではなかった。100年以上に渡る戦乱の世を終わらせ、太平の世が久しく続くことを切に願った人々の手によって、作り出された画期的平和維持制度・組織が江戸幕府であった。

しかし、そうした戦乱暴走の社会を減速させ、平穏無事な社会構築には、それ相当の長期間の努力が必要であった。長期間の政治統制を行うためには、健康長寿が何よりも基盤となる。

天下に覇を唱え、天下をうかがった名将・武田信玄は、上洛の道半ば53歳で死去している。

健康長寿を成すには、何よりも健康意識を高める必要がある。

徳川家康は、文字通り健康体を保つために実用的側面で健康管理を実践している。

健康意識の高さが健康長寿を全うし、天下泰平の世を作ることに成功した。
「徳川家康」Wikipediaより参照

■1.鷹狩

常に健康体であるためには、適度な運動は必要不可欠である。

馬に騎乗するだけでは、健康維持には不十分と判断したのか、家康は、山野を駆け巡る鷹狩を頻繁に行っている。野戦感覚を鍛え、土地の状況視察も兼ねる。足腰を鍛え、健康増進、子息を増やす一助ともなった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E7%8B%A9「鷹狩」Wikipediaより参照

鷹狩は、山野を駆け巡り、足腰を鍛え、
戦場に慣れるための実地訓練であった。

■2.麦飯

徳川家康のライバル豊臣秀吉は、大の黄金好き。金箔瓦の聚楽第、大坂城、黄金の茶室、黄金の茶道具など枚挙にいとまがない。慶長小判、慶長大判の鋳造も行っっている。大坂や京の街で黄金を町人に振る舞ったとの記録もある。

一方で、徳川家康は、ドケチで有名であった。厠で手拭きの和紙一枚を取りそこなって、慌てて追いかけ拾ったとの逸話も残る。家康が没した後には、莫大な黄金が江戸城内に積まれていたという。

家康は死後、子どもたちに残した遺品は、大量の黄金ではなく、大量の書物であった。たくさん本を読んで、徳川家を安泰たらしめよとの遺訓の意味であったろう。

家康が残した黄金は、三代将軍・徳川家光が、日光東照宮を絢爛豪華に改築する際に散財したとされる。

そんな筋金入りの倹約家であった徳川家康が、麦飯を好き好んで食べていたということは、これも倹約の一貫との見方もできる。当時、貧農は、みなひえや粟、大麦などを食べていた。白米は滅多に食べることはできなかった。そんな高価な食材である白米を我慢してまでも家康は、麦飯にこだわったのだろうか。

否、麦飯には、健康長寿の食品としての一面を、家康が見抜いていたと見るべきだろう。

麦飯ばかり食らう家康を見かねて、家臣が密かに麦飯の下に白米を入れて、御膳を家康に出してみたが、家康はカンカンに怒ったという逸話が残る。

麦飯には、食物繊維豊富で、野菜では取れない水溶性食物繊維が取れることから、胃腸の働きを高めるとされる。人一倍、健康意識が高かった家康の見識の高さが光る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6%E9%A3%AF「麦飯」Wikipediaより

白米食で起こる脚気を防ぐ意味で麦飯は、最適な食物であった。
食物繊維が豊富で、ビタミンBなど栄養素も満点
「麦飯」Wikipediaより参照