おなみひめ

別称:大乗院(だいじょういん)

1541~1602 享年62歳。

伊達晴宗の長女。母は、久保姫。兄に岩城親隆、弟に伊達輝宗らがいる。

妹に蘆名盛興室・蘆名盛隆室の露姫(彦姫)がいる。

二階堂盛義の正室となる。

盛義死去後、出家して、大乗院を称す。

阿南姫は、須賀川城主・二階堂照行の嫡男・二階堂盛義に嫁ぐ。

1561年に長男・平四郎(後の蘆名盛隆)、1570年に次男・二階堂行親を産む。

二階堂盛義が蘆名盛氏に敗れたため、蘆名氏への従属の証として、長男の平四郎を

蘆名氏の居城・黒川城に人質として出す。

1575年蘆名盛氏の跡目を継いでいた蘆名盛興が早世したことから、平四郎が蘆名家の家督を継ぎ、蘆名盛隆となる。

1581年、阿南姫の夫・二階堂盛義が病没したことから、彼女は尼となり、大乗院を号した。

二階堂氏の家督は、次男の二階堂行親が継ぐ。

1582年、行親が急死したため、阿南姫が急遽、須賀川城主となる。

須田盛秀が実質的な城代を務め、領内統治を行った。

1584年には、長男の蘆名盛隆が小姓に暗殺されてしまう。

その後、阿南姫は、実家の伊達氏と構想するようになる。

1588年、蘆名・相馬連合軍に二階堂氏は加わり、郡山合戦では、派兵を出している。

1589年6月には、摺上原の戦いが起こり、阿南姫の甥の伊達政宗によって、蘆名氏が滅亡した。

その後、伊達政宗から幾度となく降伏勧告を受けたが阿南姫は、頑なにこれを拒否し、佐竹氏・岩城氏の援兵を受けて、防戦に努めた。しかし、家臣の保土原行藤、浜尾宗康らの裏切りに遭い、1589年10月に須賀川城は落城した。

落城後、阿南姫は、実母である久保姫の住む信夫郡杉目城に移され、そこで厚遇を受けた。しかし、阿南姫は伊達氏の庇護を受けることを嫌い、甥の岩城常隆を頼って、磐城の地へ移った。

1590年、岩城常隆が死去したため、今度は、甥の佐竹義宣の下へ身を寄せた。

1602年、佐竹氏が出羽秋田の地へ転封となると、阿南姫は、これに同道し、途中、須賀川の地に里帰りし、その地で病にかかり没した。