だて ひでむね
1591-1658 享年68歳。
名称:兵五郎、秀弘
伊達政宗の庶長子として生まれる。母は新造の方と伝わる。
生まれた時、正宗の正室・愛姫に男子がなかったことから、周囲から御曹司様と呼ばれて育つ。
1594年、秀宗は政宗に伴われて、豊臣秀吉に拝謁し、秀吉への人質として、差し出され、伏見城にて養育された。
1595年7月、秀次事件が起こると、豊臣秀次と親密だった伊達政宗もこの事件に連座する。政宗は隠居して、家督を秀宗に譲り、伊達家は、伊予へ国替えの処分が下されたが、徳川家康の取りなしにより、許された。在京の伊達家重臣19名による連著で起請文が提出され、今後、政宗に逆意あらば、ただちに隠居させて、秀宗を当主に立てる旨を誓約させている。
1596年、秀宗は、秀吉の猶子となり、秀吉から秀の偏諱を受け、秀宗と名乗り、従五位下侍従に叙任・任官し、豊臣姓を授かる。
さらに豊臣秀頼のお側小姓に取り立てられ、豊臣政権に取り込まれた位置を得る。
1600年、関ヶ原の戦いの際には、西軍の宇喜多秀家の邸にて、人質となる。
1602年9月、秀宗は、徳川家康に拝謁し、今度は徳川側への人質として、江戸に向かう。
1603年1月、政宗は、正室・愛姫が生んだ虎菊丸(のちの伊達忠宗)を家康に拝謁させた。正室の子が家督を継ぐことが正式である以上、致し方のないことであったが、以後の秀宗の立場は微妙なものと成っていった。
1609年、秀宗は、徳川家康の配慮により徳川四天王の一人、井伊直政の娘・亀姫を正室に迎え、徳川氏と伊達氏の関係はより強固となる。
1611年12月、虎菊丸は江戸にて元服し、2代目将軍・徳川秀忠より一字を賜り、忠宗と名乗る。
この事により、事実上、秀宗は嫡子としての地位を追われた。秀宗の生母である飯坂氏が側室だったこと、さらに秀吉・秀頼に仕え、豊臣姓まで賜ったこと、秀吉より秀の通字を受けて、秀宗を名乗ったことなど徳川家の天下となった流れにおいて、伊達家本家を嗣ぐには、ふさわしくないとされた。
1614年大坂冬の陣では、秀宗は、父・政宗と共に徳川軍に参陣し、初陣を飾った。
戦後、大御所・徳川家康から参陣の功労を讃えられ、伊達政宗に伊予宇和島10万石を与えられ、それを政宗が秀宗に与え、その地にて、別家を立てた。
政宗より精鋭1200名あまりを貰い受け、伊予宇和島へ赴任した。
新たな藩政整備のため、軍資金6万両を借財している。
1620年元和6年、家老・山家公頼が一族皆殺しに遭う。これは、伊達本家の家臣であった公頼が事あるごとに藩政にっ口出ししたため、疎ましく思っていた秀宗により凶行であったが、この成敗の一件が起こった後、幕府や父・政宗に報告しなかったことから、政宗は激高し、勘当される。
政宗は、怒り収まらず、幕府老中・土井利勝に宇和島藩の領土返上を申し入れた。(和霊騒動)
結局は、利勝の取りなしで、政宗の申し入れは取り下げられ、政宗と秀宗は直接面会の機会を得た。
秀宗は、長男でありながら、本家仙台藩を嗣げなかったこと、長期に渡って大坂での人質生活を強いられたこと、本家に気を使う日々に対し、政宗への恨みを持っていたことを打ち明けた。
政宗は秀宗の苦悩を理解し、勘当を解いた。この一件を経て、親子の関係は良好に成ったという。