加賀一向一揆とは?—戦国時代を揺るがした宗教勢力の実態

加賀一向一揆(かがいっこういっき)は、戦国時代に現在の石川県(当時の加賀国)で発生した大規模な一向一揆のことを指します。これは 浄土真宗(本願寺門徒)の信徒たちが武装し、守護大名を追放して100年近く自治を行った、戦国時代でも特異な事例 です。加賀は「百姓の持ちたる国」とも呼ばれ、武士だけでなく農民や商人も一体となった自治政権を築いたことで知られます。

本稿では、加賀一向一揆の成立過程、戦いの経緯、自治の実態、そして最終的に滅亡するまでを 実例を挙げながら 詳しく解説していきます。


1. 加賀一向一揆の背景

(1) 一向宗(浄土真宗)と戦国時代

加賀一向一揆を語るには、まず 一向宗(浄土真宗) の勢力について理解する必要があります。

浄土真宗は、親鸞(しんらん)が開いた仏教宗派で、「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも救われるという 「悪人正機説」 を説いたことで、多くの民衆の支持を得ました。室町時代になると、本願寺(浄土真宗の中心寺院)が全国に布教を広げ、多くの信徒(門徒)が生まれました。

一方、戦国時代は 弱肉強食の時代 であり、武士や領主だけでなく宗教勢力も軍事力を持つことが珍しくありませんでした。特に浄土真宗の信徒たちは 「一向一揆」 という形で団結し、武士や大名と戦うようになりました。

(2) 加賀国の支配構造と守護大名の混乱

加賀国はもともと、室町幕府の守護大名である 富樫氏 が支配していました。しかし、15世紀後半になると守護職を巡る内紛が発生し、家臣や一向宗門徒の対立が激しくなります。

この頃、本願寺の影響力が強まり、加賀国でも浄土真宗の信徒が増えていきました。そして、富樫政親(とがし まさちか) が守護となると、一向宗門徒の弾圧を強化し始めます。これが加賀一向一揆のきっかけとなります。


2. 加賀一向一揆の勃発(1488年)

(1) 富樫政親 VS 一向一揆

富樫政親は、当初は本願寺勢力と協調する姿勢を見せていましたが、次第に対立を深めていきます。そして1488年、一向宗門徒たちは 蜂起(武装蜂起) し、加賀国内で戦いが勃発しました。

この時、一向宗側は 「百姓・農民・商人・一部の武士」 までをも巻き込み、大規模な軍事勢力を形成しました。一方の富樫政親は、家臣の裏切りもあり、最後には 自害 に追い込まれます。

長享2年(1488年)6月9日、富樫政親は、石川郡高尾城を攻められ、これを抑えられずに子の又次郎(富樫家延)とともに自害した。

これにより、加賀国は事実上、本願寺門徒たちの支配する自治国家となりました。

(2) 一向宗による加賀支配の確立

富樫政親を滅ぼした一向宗門徒たちは、その後も 大名を立てずに自治を行う という、戦国時代でも異例の統治を行いました。門徒たちは、僧侶や有力門徒が中心となる 「講」や「惣」 という組織を通じて、政治・経済を運営しました。

このような体制は、戦国大名の支配とは異なり、武士だけでなく農民や町人も大きな役割を果たしていたことが特徴的です。


3. 加賀一向一揆と戦国大名との戦い

加賀一向一揆は約100年続きますが、その間に多くの戦いを経験しました。特に重要な戦いをいくつか紹介します。

(1) 朝倉氏との戦い(1520年代)

福井県の戦国大名 朝倉氏 は、加賀の一向一揆勢力を警戒し、たびたび侵攻を試みました。しかし、門徒たちは ゲリラ戦や奇襲戦術を駆使し、撃退 しました。朝倉氏も一向一揆の勢力の大きさを認識し、和睦を選びました。

(2) 織田信長との戦い(1570年代)

wikipediaより参照:柴田勝家像

戦国時代後期になると、加賀の一向一揆は織田信長と対立しました。本願寺と信長の戦い(石山戦争)の一環として、信長は加賀一向一揆を討伐しようとします。

1575年、織田信長の家臣 柴田勝家 が加賀に侵攻し、門徒勢力を次々と制圧していきました。最終的に1580年、本願寺が信長に降伏したことで、加賀一向一揆も 滅亡 しました。


4. 加賀一向一揆の影響と意義

(1) 戦国時代における宗教勢力の影響力

加賀一向一揆は、単なる一揆ではなく 約100年間、国を治めた一向宗自治政権 でした。これは、戦国時代の中でも異例の出来事であり、宗教勢力が戦国大名と同じほどの影響力を持っていたことを示しています。

(2) 豊臣政権・江戸幕府への影響

加賀一向一揆のような大規模な宗教反乱を防ぐため、豊臣秀吉や徳川家康は 寺社勢力の武装を徹底的に抑える政策 を行いました。江戸時代の寺請制度などの基盤は、加賀一向一揆の経験から学ばれたともいえます。


5. まとめ

加賀一向一揆は、戦国時代において 宗教勢力が戦国大名と同等の力を持ち、約100年にわたって自治を行った特異な事例 でした。富樫政親の討伐から始まり、多くの大名と戦いながらも存続しましたが、最終的には織田信長の勢力に屈しました。

しかし、加賀一向一揆の影響はその後の日本の統治にも大きな影響を与え、戦国時代の歴史において重要な役割を果たしました。