長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は、戦国時代に現在の三重県北部(伊勢国の北端)に位置する長島(現在の桑名市長島町)で発生した一向一揆である。この一揆は、織田信長による一向一揆弾圧の一環として行われたものであり、1571年から1574年にかけて数次にわたり繰り広げられた。この戦いは、織田家と一向宗(浄土真宗本願寺派)門徒との抗争の中でも特に苛烈を極めたものであり、最終的には信長軍による徹底的な殲滅戦となった。ここでは、この一揆の背景、経過、戦術、影響などを専門的に解説し、具体的な戦闘や戦略、武将の動向などを詳述する。


1. 長島一向一揆の背景

長島一向一揆は、戦国時代における一向宗の勢力拡大と、それに対する戦国大名の弾圧という文脈の中で発生した。特に織田信長は、尾張・美濃を制した後、畿内や北陸への進出を進める過程で本願寺勢力と対立を深めていた。

1-1. 一向一揆とは

一向一揆は、浄土真宗本願寺派(通称:一向宗)を信仰する門徒たちが結集し、寺院勢力の指導のもとで起こした武装蜂起である。特に加賀一向一揆(1488年–1580年)は、戦国時代における宗教自治政権として長期間存続し、戦国大名に対抗しうる軍事力を持った勢力の一例として知られる。

一向一揆は、信仰によって強く結びついた農民、商人、地侍らが結集し、戦国大名と戦った点で他の反乱とは異なる特徴を持つ。戦術としては、籠城戦やゲリラ戦を得意とし、長期間にわたって粘り強く戦うことができた。

1-2. 長島の地理的重要性

長島は伊勢湾に面し、木曽川・長良川・揖斐川が合流するデルタ地帯に位置する。この地は、尾張・美濃・伊勢を結ぶ交通の要衝であり、経済的にも重要な地域であった。特に長島周辺には港湾が発達し、交易の中心地として繁栄していた。

長島には一向宗の寺院が多く、門徒衆の勢力が強かった。このため、戦国大名たちは長島を制圧することで、経済・軍事の両面で有利な立場を築こうとした。


2. 長島一向一揆の経過

長島一向一揆は、織田信長の本願寺弾圧政策の一環として行われた。特に、1570年の「金ヶ崎の退き口」以降、信長と本願寺の対立は激化し、1571年には長島において一向一揆が蜂起した。

2-1. 1571年の戦い(第一次攻撃)

1571年、織田信長は長島の一向宗門徒を討伐するため、軍を派遣した。しかし、このときの攻撃は一向一揆勢の激しい抵抗に遭い、織田軍は大きな損害を被った。特に、長島の地理的特性(河川の存在)を活かした門徒衆の防御戦術が功を奏し、織田軍は撤退を余儀なくされた。

2-2. 1573年の戦い(第二次攻撃)

1573年、信長は再び長島攻略を試みた。今回の攻撃では、柴田勝家や佐久間信盛などの重臣を投入し、大規模な軍勢をもって攻撃を仕掛けた。しかし、一向宗側も籠城戦を展開し、信長軍は思うように戦果を挙げることができなかった。

この戦いでは、門徒衆が「夜襲」「水攻め」「火攻め」などの戦術を駆使し、織田軍の進軍を阻止した。特に、長島は周囲を川で囲まれているため、水路を利用した戦術が効果を発揮した。このため、信長は長島攻略を断念し、一時撤退した。

2-3. 1574年の戦い(第三次攻撃、最終戦)

1574年、信長は長島一向一揆を完全に鎮圧するため、大規模な軍を編成した。織田軍は以下のような戦略を採用した。

  • 総力戦:織田信長自ら出陣し、総勢5万ともいわれる大軍を率いた。
  • 包囲戦:長島を完全に包囲し、食糧補給を断った。
  • 徹底殲滅:籠城していた門徒を一人残らず殺害する方針を取った。

特に、織田軍は火攻めを多用し、長島の拠点となっていた寺院や町を焼き払った。さらに、城を落とした後、生き残った門徒衆を捕縛し、木曽川に沈めるなどの虐殺を行った。このときの死者数は2万人とも3万人ともいわれており、戦国時代の中でも特に凄惨な殲滅戦の一例として記録されている。


3. 長島一向一揆の影響

長島一向一揆の殲滅により、一向宗勢力は東海地方における拠点の一つを失った。これにより、信長は本願寺との戦いを優位に進めることができるようになった。

3-1. 一向宗の勢力後退

長島の一向一揆が壊滅したことで、尾張・美濃・伊勢における一向宗門徒の抵抗は大きく減少した。このため、信長はさらに本願寺の本拠地・石山本願寺(大阪)への攻撃を強化することができた。

3-2. 織田軍の戦術の発展

長島一向一揆で信長は「包囲戦」「火攻め」「徹底殲滅戦術」を駆使し、以後の戦いでもこの戦術を用いるようになった。特に、1575年の長篠の戦いや、1580年の石山合戦(石山本願寺攻防戦)において、信長の戦術が洗練されていった。

3-3. 戦国時代の宗教勢力の衰退

この戦いを契機に、一向一揆の勢力は全国的に弱体化し、やがて豊臣秀吉や徳川家康の時代には完全に制圧された。


4. 結論

長島一向一揆は、戦国時代における一向宗と戦国大名の対立の中でも特に激しい戦いの一つであり、織田信長による徹底的な宗教弾圧の象徴でもあった。この戦いの結果、信長は本願寺勢力を大幅に弱体化させ、天下統一への道を切り開いた。