本多 正信
ほんだ まさのぶ
1538-1616
享年79歳。

 

名称:弥八郎、正保、正行、佐渡守


居城:相模玉縄城

■本多俊正の子。本多忠勝とは
同族である。

■正信は幼少の頃から、家康に仕え、
1559年正信21歳の時、大高城兵糧
入れで活躍している。

■三河一向一揆では家康に敵対し、一
揆鎮圧後は、京都へと流浪した。
上洛後、畿内や加賀、越前などを流
浪して一揆勢に参加した。

■流浪の日々を送った正信は、畿内の
奇才・松永久秀に謁し、「剛に非ず、
柔に非ず、非常の器」とその人物評
を得ている。

■正信の諸国事情に通じた才覚を見込
んだ、家康の家臣・大久保忠世の斡
旋で正信は家康に帰参した。
その後、家康の知恵袋として活躍
する。

■1590年、家康の関東入りとともに相
模玉縄城主となり1万石を領す。

■正信の武功は少ないものの謀略に
長け、家康との意思疎通は格別に
よく、正信の献策すべてが重用され
たほどである。

■江戸幕府が開かれると1600~1615
年まで老中格を勤める。
家康が隠居し、駿府に退くと正信の
子・正純を家康側近とし、正信は新
将軍・徳川秀忠の軍師として江戸で
活躍した。

■3万石に拡充した正信は、最後の大
仕事、大坂の役を家康とともに乗り
越え、目的を達成すると死後が近い
ことを察し、子の正純に対して大身
することを戒め没した。
享年79歳。
「本佐録」を著したといわれている。