酒井 忠次
さかい ただつぐ
1527-1596
享年70歳。

 

名称:小平次、小五郎、左衛門尉、
一智


居城:三河吉田城

■酒井左衛門尉忠親の子。
忠次は智勇兼備の将として、
徳川家でその右に出るものなし
とうたわれた
徳川家臣団きっての元老である。

■1542年、忠次15歳の時、父・忠親
の跡を継ぎ、家康の父・松平広忠
に仕えた。

■1549年、忠次22歳の時、幼少の家
康が今川家へ人質として出される
と忠次はこれに随行した。
家康と苦労を分かち合い、主君に
忠義を尽くす忠次の姿勢は、三河
武士の鏡とされた。
忠次の妻・光樹夫人は家康の祖父
・清康の娘・碓井姫(広忠の妹)で
あり、家康の叔母に当たるという
家康とは親族関係にある。

■徳川四天王の一人に数えられ、武
功も徳川家臣団の中で群を抜いて
多く、徳川家の宰相的存在であった。

■1562年、忠次35歳の時、八幡佐脇
の戦いが起きるとこの合戦で忠次
は、すぐれた軍功を立てている。

■1563年、忠次36歳の時、三河一向
一揆が起こると家康の多くの家臣
が一向一揆に加わるという離反が
起きたが忠次は忠義を守り、家康
の下で一向軍と戦った。

■1564年、忠次37歳の時、徳川軍は、
三河の今川領制圧の軍を動かし、
今川方の東三河吉田城主・小原
肥前守を攻め、忠次はこれを陥落
させ、家康の三河統一を実現さ
せた。
この軍功により、忠次は吉田城を
賜った。

■東三河統一戦で活躍した忠次と西
三河統一戦で活躍した石川数正
は、徳川の両家老といわれた。

■1573年、三方ヶ原の戦いで家康が
武田軍に大敗し、浜松城へ逃げ戻
ってくると忠次は太鼓を打って三河
兵を鼓舞した。
この忠次の思い切った行動は、後
に「酒井の太鼓」として知られた。

■1575年、長篠の戦いでは軍議に参
加した忠次が鳶巣山に布陣する武
田軍の夜襲を提案する。
しかし、信長は器量の小さい作戦と
けなし、満座で嘲笑した。
信長は軍議が終ると家康を通じて、
忠次を呼び出し、先ほどの嘲笑は、
作戦の機密を守る為の偽りの言辞
であったと打ち明け、早速忠次に
夜襲の別働隊を組織し、指揮する
よう命じた。
結果、忠次の夜襲攻撃は成功し、
多大な戦功を上げるに至った。

■1579年、家康の嫡子・松平信康と
築山殿が武田家と密通していると
の嫌疑が織田信長により出される
と、その弁明のために信長の下へ
使わされた使者が忠次であった。
しかし、信長の詰問の前にありの
まま実情を話した忠次は、結果、
信長の嫌疑を晴らすことなく帰国
するという
忠次の生涯唯一といってもよい失
態を演じてしまう。
信長の嫌疑の前に家康は成す術
もなく信康を幽閉。築山殿を斬首
する。
失意にくれた信康は家康以上とも
もてはやされたかつての英才の影
も失い、切腹して果てた。
後に老齢になった忠次は、家督を
家次に譲り、隠居する際に家康に
子・家次の厚遇を願うと家康から
「お前でもわが子が可愛いか」と暗
に非難されたという。

■1583年、家康の娘・督姫と関東の雄
・北条氏政の嫡子・氏直との政略
結婚が成立する。その席上に出席
した忠次は北条氏政に謁し、氏政
からその才覚を認められ、名刀「一
文字の貞宗」を賜った。

■1584年、忠次は小牧の戦いでは豊
臣軍の森長可隊と対戦し、首級30
0余を上げ、これを敗走させる軍功
を立てた。

■1586年、秀吉に謁した忠次は、徳川
家臣団一の武功者として秀吉から
褒め称えられ、従四位下左衛門督
に叙任され、近江国内に1千石と京
都桜井邸を賜るという厚遇を受けた。

■その後、忠次は嫡子・家次に家督を
譲り、自身は一智と号して隠遁した。
家次は、家康の関東入り後、下総3
万石を領した。

■1596年、豊臣政権の下、泰平の世の
中が訪れ、安穏とした隠居生活を送
った忠次は、視力を失うなど老衰し
て没した。
享年70歳。(一説に72歳ともされる)