武田 勝頼
たけだ かつより
1546-1582
享年37

名称:四郎、諏訪四郎神勝頼


居城:信濃高遠城→甲斐躑躅ヶ崎城→甲斐新府城

■武田信玄の四男。
母は諏訪頼重の娘・諏訪御
料人。

■1562年6月に元服し、正式に
諏訪頼重の跡目を継ぐ。
同時に信濃高遠城主、伊那
郡代に任じられる。
また、信玄の老臣・跡部重政
ら8人を付され、武田家期待
の貴公子のような環境を与
えられた。

■1565年、織田信長の養女を
妻とし、1567年嫡子・武田
信勝をもうけたが、その妻
は産後のひだちが悪く没した。

■勝頼の腹違いの兄で武田家
嫡子・武田義信が信玄との
確執で謀反を企て、失敗に
終ると自刃して果てた。

■兄・義信の死後、信玄は武田
家後継者に勝頼の子・信勝
を指名。
勝頼は、諏訪家を継いでいた
ため家督相続までには至らず。
武田信勝の後見役を務める
こととなる。

■1573年、武田信玄が没する
と、勝頼は武田家の家督を
継ぎ、武田家の実権を握った。
この時、勝頼は諏訪家の家
臣を多く率いて甲斐本国に
乗り込んで来たため信玄の
宿老など甲斐豪族らと対立
することとなった。

ことに勝頼は、長坂釣閑斎や
跡部大炊助ら寵臣を重用し
たためしばしば軍議の席で
甲斐豪族らと意見が合わず、
斬り合い寸前になるなど武
田家の結束が乱れた。

■1575年、勝頼は徳川領の遠
江高天神城を攻撃。信玄で
さえ落とせなかった名城を
陥落させることに成功した。
これで勢いづいた勝頼は、
長篠城攻撃へと侵攻した。

信長はこの機を逃さず、大
軍を率いて徳川軍と合流。
連合して勝頼掃討へと臨む。
一方、勝頼はまさか敵が自
分の率いる兵力の三倍以上
でなるとは思いもよらず。
地形の関係上、長篠城から
の撤退すると逃げ道が細い
ため、敵の追撃隊の餌食に
されると判断。
敵を正面から打ち破るほか
無くなる。しばらくの間、両
軍が対峙したままとなるも、
織田家重臣・柴田勝家が武
田家へ内応する密書が届き
、武田軍総攻撃の際に寝返る
とのこと。

信玄の宿老らは正面攻撃を
避け、敵を横合いから奇襲
する戦法を提示するが勝頼
はこれを一蹴。
正面総攻撃を決断する。
しかし、いざ合戦が始まると
事態は、勝頼の予想に沿わず。
鉄砲隊の連続射撃に加え、
内応の約束を交わした柴田
勝家の寝返りもなく無敵を誇
った武田の猛者たちは戦場
のつゆと消えた。

命からがら甲斐国へ逃げ戻
った勝頼を向かえた知将・高
坂昌信は、敗戦の帰還は国
政に響くとして、
勝ち戦の凱旋によそわせる
などの工夫を見せた。
しかし、武田家を支えてきた
歴戦の猛者がことごとく討死
すると一気に甲斐豪族の心
は武田家から離れていった。

■勝頼は、豪族の古い政策を見
直し、信長のように近代的な
組織作りを目指した。
その為、本拠地を躑躅ヶ崎
城(つつじがさきじょう)から
新府城へと移転するなど国
政の一新を図ろうとした。
しかし、この新政策はますま
す甲斐豪族たちの反感を招
くことになる。

■1577年1月、勝頼は関東一
円へ勢力を拡大した北条氏
と和睦を交わし、政略結婚
として氏政の妹を娶り、両国
の連携を強める巧みな外交
手腕を発揮した。

しかし、1578年3月、越後の
上杉謙信が卒中で急死する
と上杉家の家督争いに無用
にも介入。
上杉景勝と上杉景虎の二分
した家督争いが展開するが
剋よりは、上杉景勝の才覚
を見込んで、景勝側を支援
した。
そのため、北条氏政の実弟
で謙信の養子となっていた
上杉景虎を見殺しにする形
となった。
この勝頼の動きに憤激した
氏政は同盟を破棄した。
自ら有益な成果を収めたは
ずの外交政策を自分で破棄
するという愚策を行った勝頼
は、織田・徳川という強敵の
前に愚人と映った。

■信玄が築き上げた天下無敵
の武田組織を10年足らずで
ぐらつかせた勝頼の無能さ
を見定めた家康は、駿河へ
と侵攻。

愚策ばかりを行う勝頼に武
田家臣は離反していると見
抜いた家康は調略の手を伸
ばし、武田家一族の穴山信
君を味方に引き入れること
に成功。
駿河を制覇するころには、甲
斐武田氏の運命は決まってし
まった。

■1581年、新府城を築いた勝
頼は、必死の抵抗を見せる
が、甲斐の喉元である駿河
を制した徳川の前には敵の
侵攻を防ぐ手立てがなく、
ついに織田信長が大軍を率
いて侵攻してくると武田家臣
はこぞって織田、徳川に寝返
った。

■この窮地の中、勝頼は侵攻し
てくる織田軍を攻めずに寝
返った木曽義昌を攻めると
いうまたも愚策を犯し、しか
も織田信忠の救援隊と合流
した木曽軍に敗退するという
散々たる失態を演じた。

■新府城の軍議の席で、郡内岩
殿城で再起を勧める小山田
信茂の案を入れ、岩殿城へ
向かった勝頼だったが、小山
田氏に謀反され行き場を失う。
1582年3月11日、天目山へと
逃れた勝頼は小山田軍の包
囲に奮戦しつつも一族郎党と
もども自刃して果てた。
享年37歳。

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