おがさわら ただざね

1596-1667 享年72歳。

下総国古河城にて生まれる。小笠原秀政の次男。

1615年慶長20年、大坂夏の陣にて、父・秀政と兄・忠脩が戦死したため、家督を継ぐ。信濃松本8万石を領し、兄・忠脩の妻・亀姫を正室に迎え、忠脩の長男・長次を養育した。

その後、徳川一門として立身出世を成し、播磨三木明石10万石を治め、さらに後には、豊前小倉15万石へ移封となり、大身した。

武家礼法を司る小笠原宗家として、武門にいるものであれば、誰でも知る名家であったがゆえに、九州の荒くれ武者を束ねる家格として幕府に見込まれた栄転であった。

忠真もそれを十分に承知し、九州諸大名をまとめる大役を務めた。後に小倉藩小笠原家は、九州の小幕府と呼ばれ、幕府命令を九州諸大名に上意として伝える役割を果たした。

九州は、剛の者が多い中で、武家作法、弓馬術の本家本元の家格を持つ小笠原家は、十分な家柄であった。

島原の乱の際には、長崎守備の任を務め、九州治安に務めた。

剣豪・宮本武蔵が最も長く仕えたのは、小倉藩小笠原家であった。

忠真は茶人としても当代随一の人物であった。小倉の地にて茶道の基礎を築いた。上野焼きの育成に尽力し、茶人・古市了和を召し抱え、小笠原家茶道古流を興している。

糠漬けを好み、小倉城下の人々にも糠床を分け与え、糠漬けを奨励した。

現在も、小倉城下町にて、代々受け継がれ続けている「百年床」という糠床がある。