1567-1636 享年70歳。
梵天丸、美作守、陸奥守、権中納言出羽国米沢城の城主。
仙台藩始祖。仙台城を築く。
政宗は1582年に初陣を果たす。
父・伊達輝宗から実戦帝王学を徹底的に仕込まれて青春時代を過ごす。
政宗の傅役は片倉小十郎ら側近が務めた。
奥州の名門・伊達家の御曹司として、期待を一身に集めた。
政宗18歳にして、家督を受け継ぐ。伊達家の代替えを祝すべく安達郡の大内定綱が米沢城に訪れ、伊達家の傘下となるも、翌年には、反旗を翻した。
激怒した政宗は、大内領へ攻め込み、緒戦の敵の城である小手森城を攻撃。攻略すると籠城していた将兵はもとより、女子供に至るまで800余人をなで斬りにした。この過酷な厳罰に臨んだ政宗の行動を知った大内定綱は戦わずして、会津の蘆名氏を頼って落ち延びていった。
1585年、二本松城主の畠山義継が隠居していた伊達輝宗の元を訪れ、伊達家臣従を申し込むも、心変わりして、輝宗を人質に取り、二本松城へ誘拐しようと謀る。
政宗は、追手を向かわせ、途中阿武隈川の河原にて、追いつく。政宗は、人質に取られ戦況を不利にすることを恐れ、輝宗もろとも義続を銃撃戦にて惨殺した。
父・輝宗を身代わりとするも、仇敵畠山義継を討つに至り、政宗は、見せしめとして、義続の死骸を磔にしてさらした。
この事件から7日後、畠山氏が籠もる二本松城へ攻め込むも、佐竹・蘆名連合軍が二本松城救援に出撃したとの知らせを受ける。
政宗は手勢八千余を率いて、敵軍連合3万余と対峙する。
両軍は人取橋の占拠を巡って争奪戦を繰り広げた。政宗自身戦場に出て奮戦し、矢傷ひとつ、銃弾五発を浴びる。
政宗は本宮城へ引き上げ籠城したが、連合軍は政宗にとどめを刺すことなくほどなくして撤退した。原因は、佐竹義政が配下の将に刺殺されたためだった。
その後、体制を立て直した政宗は1586年再び二本松城を攻め、これを攻略した。1588年には、佐竹・蘆名連合軍四千余に対して、六百の手勢だけで互角に戦いあった。この郡山合戦において、政宗は「独眼竜」の異名をもって畏怖されるようになる。1589年、蘆名領の安子ヶ島城を開場させ、高玉城を激戦の末に制した。この戦いで城中のすべての者を惨殺している。
その後は浜通り地方の相馬氏の領土へ攻め入るなど奥州制覇の野望を燃やした。
蘆名・佐竹連合軍が再び、北上を開始すると守勢に入らず、会津へと攻め込み、蘆名氏の土台崩しに至る。