吉川 広家
きっかわ ひろいえ
1561-1625
享年65歳。


名称:才寿丸、次郎五郎、又次郎、経信、
民部少輔、蔵人頭、侍従、従四位下


居城:安芸日野山城→周防亀尾城

■1561年、吉川元春の三男として誕生。

■1570年、10歳で尼子残党の尼子勝久
征討戦に参軍し、初陣を果たした。

■秀吉の友好外交により、毛利家は秀吉
に属することなり、人質として広家は小
早川秀包とともに大坂に赴く。

利発な気質を見せる広家を秀吉はひど
く気に入り、のちに隠岐に封ぜられた。

■1586年、父・元春が没し、続いて
1587年、実兄・元長が若くして没したた
め、広家は家督を継いだ。

■武名で家名を誇る吉川家の当主となっ
た広家は、家督を継いで早々、秀吉の
天下平定戦に参軍。

毛利軍の先鋒として各地を転戦した。

■秀吉の朝鮮出兵に際して、広家は戦功
を挙げたが、石田三成をはじめとする
奉行衆と不和が目立つようになる。

数々の武勲も奉行衆の不手際で敗戦
へと転化し、恩賞もろくに得られず、広
家は奉行衆を恨むようになる。

のちにこの恨みが尾を引いて、関ケ原
の戦いで西軍から東軍への内応という
行動に至る一要因となった。

■関ケ原合戦の際、広家は毛利家一族の
長老として采配を振るい、気ままな輝
元を補佐して、毛利家の天下制覇の覇
業を夢見た。

しかし、石田三成ら文官の不手際の目
立つ西軍では危ういとすぐさま気付き、
家康への内応を取り付ける。

家康へ人質まで差し出して、毛利家不
戦の誓いを立てるなど布石を布く。

関ケ原でいざ合戦が始まると広家は毛
利の大軍を率いる毛利秀元を家康本
隊の後方にある山に陣取らせ、広家は
その山のふもとに陣取って戦況を見守
った。

合戦当初、西軍優勢に進んむ戦況を
見て、毛利軍総帥・毛利秀元は山を一
気に下り、家康本陣の後方を突こうと
軍を動かそうとしたが、山のふもとに陣
取る広家隊が山道をふさいでいっこう
にどこうとしない。

秀元の再三の軍移動命令と西軍総帥・
石田三成の毛利軍出陣要請を広家は
完全に無視。ただ戦況を見守るに留
まる。

結局、西軍は、西軍の小早川軍の裏切
りにより、崩壊。この西軍崩壊の戦況を
見た、広家は毛利軍総帥・毛利秀元を
連れて、戦場離脱を敢行した。

■関ケ原合戦が終止すると家康は、毛利
軍が積極的に東軍に参軍して戦わな
かったことと毛利家当主・毛利輝元が
西軍総大将として大坂城に入っていた
ことを理由に毛利家の改易を決めよう
とした。

広家の毛利宗家の本領安堵の盟約を
反故にして、代わりに周防・長門を広
家に恩賞として与えようと図ったのだ。

しかし、広家はここで自慢の胆力で粘
りを見せ、四方八方に奔走して、自分
の恩賞を毛利宗家に分譲することを願
い出て、家康に何とか妥協させること
に成功した。

この時の奔走振りで広家は、毛利宗家
の取り潰し回避に成功し、一世一代の
高名を馳せた。

■毛利宗家の安泰が成ると、輝元から3万
6000石の所領を贈られ、のちに6万石
に加増されている。

1625年、毛利家の安泰を見守りつつ、
毛利家最大の功労者は没した。
享年65歳。

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