ほうじょう うじなお
1562-1592
享年31才。


名称:国王丸、新九郎、左京大夫、
    見性斎
居城:相模小田原城


■北条氏政の嫡男として誕生。
  母は武田信玄の娘・黄梅院である。

■1577年、氏直16歳の時、常陸小田
  城に拠る梶原政景を攻めたのが
  初陣である。

■1578年、越後の上杉謙信が没する
  と、それまで北条家と同盟を結ん
  でいた甲斐武田家と越後上杉家と
  の同盟関係は崩壊する。
  武田、上杉両氏と対立することとな
  った北条家は織田、徳川両氏と通じ
  て、武田、上杉両氏に拮抗すること
  となる。

■1580年、氏直28歳にして父・氏政より
  北条家家督を譲られ、後北条家五代
  目当主となるが、氏政の後見の下、
  国政を預かった。

■1582年、武田家滅亡後、甲州の地に入
  った織田氏と対立するも、同年6月に織
  田氏頭領・織田信長が本能寺に散ると
  その知らせを受けた氏政・氏直父子は
  、それまで対峙してきた織田軍・滝川一
  益を追撃し、これを打ち破る大戦果を
  挙げる。

  甲州の地が織田氏統治の手から離れ
  たことで、北条氏と東海の徳川氏との
  熾烈な争奪戦が繰り広げられることと
  成る。
  その後、北条氏と徳川氏は和議を結び
  、甲斐・信濃の二国を徳川領、上野を
  北条領と定め停戦に入った。

■四国・九州の地を平定した豊臣秀吉は
  、関東一円に領土を持つ北条氏に勝
  手な領地争いをしては成らないという
  定め書きを送り付け、天下人としての
  権勢を振るった。
  しかし、豊臣氏の勢力のほどを知らな
  い氏政はこれを軽んじ、信濃上田城に
  拠る真田昌幸を攻めた。
  これに激怒した秀吉は、小田原征伐を
  敢行。20万もの大軍を引き連れて、東
  下してきた。
  これに対し、氏直は秀吉に恭順の意を
  表すべきと主張したが、父・氏政と家臣
  たちは徹底抗戦を主張し、結果的に北
  条氏得意の徹底篭城の方針に決定
  した。
  不本意ながらも氏直はこれに従い、相
  模小田原城に篭ったが瞬く間に北条方
  の諸城は陥落され、北条氏本拠の小
  田原城も包囲された。

  かつて、上杉謙信が関東管領の権限
  を利用して関東内の武士に参軍を呼び
  かけ、それに応じた関東武士を含めた
  上杉軍12万の大軍で小田原城を取り
  囲んだことがあった。
  しかし、北条氏は徹底篭城を行い、上
  杉軍は食糧難により、自滅解散すると
  いう前例に基づいて、今度の豊臣軍
  20万も食糧難で撤退を余儀なくされる
  と打算していた。

  小田原城内には1年以上も篭城できる
  大量の兵糧があるため、豊臣軍は当
  然、それまでに退却するであろうと読ん
  でいた。
  しかし、秀吉は石田三成ら有能な文官
  を駆使して、全国から兵糧を集め、前
  戦基地へ海路、船団で送り届けるとい
  う画期的な補給システムを構築して
  いた。
  これにより、1ヶ月、2ヶ月と経ても一向
  に疲労の顔を見せない豊臣軍に北条
  軍は焦り出すこととなった。

  この状況に秀吉はとどめを刺すかのよ
  うに小田原城近くの山に密かに城を築
  かせ、2ヶ月足らずで完成するというと
  いう驚異的な築城速度を成し、完成し
  た城の周囲の木々を切り倒して、小田
  原城にいる者たちに山城の姿がよく見
  えるようにした。
  小田原城内では、一夜のうちに立派な
  天守閣を持つ山城が出現したことに驚
  き、秀吉とは、神か天狗かと恐れおの
  のいた。

  北条氏と通じて、徹底抗戦を密約して
  いた東北奥州の伊達氏も秀吉に屈服
  すると孤立無援となった北条氏はつい
  に降服した。

  秀吉の北条氏に対する処罰は苛酷な
  もので徹底抗戦を主張した北条氏政・
  氏照兄弟に切腹を命じ、北条氏の領土
  も全て没収とした。
  氏直だけは、家康の娘婿ということで、
  助命され、高野山へ出家を命ぜら
  れた。
  氏直は、秀吉の恩情に感謝しつつ、助
  命された北条氏規ら北条家一門300人
  余りを引き連れ、高野山に向った。
  この時、さすがに秀吉もかつて関東一
  円に五代に渡って、栄華を誇った後北
  条氏の哀れな末路を不びんに思い、高
  野山に入る北条氏一行の護衛兵を増
  員させ、幾ばくかの宝物を与えるという
  恩情を示した。

■その後、秀吉から1万石を与えられた氏
  直は、河内国に入り、小大名として後
  北条氏再興を成すかに見えたが、没落
  の痛手が体を蝕んだのかあえなく寿命
  が尽き、1591年、31才の若さで病没
  した。
  混迷を極めた関東の地に勢力を拡大
  させ、一定の秩序をもたらした後北条
  氏の力量は大したものであったといえ
  るが、たった一度の政局を見誤ったた
  めに五代に渡って栄華を誇った北条氏
  の血脈までも絶ってしまったことは残念
  で成らない。
  しかし、北条氏の規律の行き届いた家
  臣団は、小田原征伐後、関東の地に入
  った徳川家康にほとんどが仕え、家康
  の関東開拓にそのすぐれた事務処理
  能力を振るうことになる。
  混迷にあった関東の地をある程度整備
  し、長年にわたって統治してきた代々
  の北条家当主たちの功績は、大きいも
  のがあった。