ほうじょう うじてる
1540-1590
享年51才。


名称:藤菊丸、大石源三氏明、由井源三、陸奥守
居城:武蔵滝山城→下総栗橋城→下野祇園城→
    武蔵八王子城


■北条氏康の二男として誕生。
氏康は、関東一円に北条氏の領土拡大を図る過程で、

関東各地に根が深い諸豪族と良好な関係を築くことが望ましいとして、外交戦術の一貫として、子女を諸豪族に送り込み、血縁関係を結んでいる。

  氏照も7歳で武蔵守護代の後裔・滝山城主の大石定久の養子となり、後に大石家の家督を継いでいる。
  大石氏は、扇谷上杉家に仕えていたが、北条氏が勢力を拡大してくるとこれに寝返り、北条氏に属した。
  氏照は、養父・大石定久が没すると、大石姓から北条姓へ復して、完全に大石氏の勢力を北条氏に取り込んでしまった。

■兄・氏政を補佐した氏照は、1564年に房総の雄・里見義弘との下総国府台の戦いで奮戦を見せる活躍を成した。
  1568年には下総栗橋城を陥落させ、1574年に下総関宿・水海攻め、1577年下野小山・榎本両城を陥落させた。
  1582年に下総古河城を落し、北条家の関東一円への領土拡張戦で大いに手腕を振るった。
  特に1575年における下野南部への侵攻で小山氏討滅戦に活躍し、その小山氏旧領を確保。
  栗橋城に拠って、北関東に支配を及ぼしている。

■1580年、兄・氏政が家督を嫡男・氏直に譲ると、氏照は氏直の補佐役にまわり、評定衆筆頭に就いた。
  1590年、秀吉の小田原征伐が開始されると、氏照は激戦を予想して八王子城を築き、豊臣軍に備えた。
  1590年3月から豊臣軍総勢20万の大軍が関東の北条方諸城に攻めかかり、北条氏本拠・小田原城も包囲された。6月14日には鉢形城が陥落し、6月23日に八王子城が攻撃された。
  八王子城主であった氏照は、小田原城に篭っていたため、城の守備は手薄で、豊臣軍の上杉景勝、前田利家の猛攻にあい、たった1日で陥落してしまった。
  八王子城陥落の報を聞いた氏照は床を叩いて号泣したという。
  八王子城陥落から10日後、小田原城も開城し、北条氏は全面降伏した。
  北条家の若き当主・氏直は助命されたが、豊臣軍に徹底抗戦を主張した氏政・氏照は、切腹を命じられ、氏照は侍医の田村安清邸で自害して果てた。
  享年51歳。

  氏照は北条家屈指の武勇者として関東の地侵略において、その武勇を振るって活躍したが、天下之政局を見極める眼力に欠けていたと言わざるおえない。
  秀吉が率いる豊臣軍は近畿・中国・四国・九州・中部・北陸、それぞれの地方が排出した屈指の精鋭部隊が加わっており、いかに関東一円に巨大な勢力を誇った北条氏といえども太刀打ちできるはずがなかったのである。
  情報収集とその情報分析を怠ったことが北条氏滅亡の最大の要因と言える。
  この怠りが武勇で鳴らした氏照の活躍の場さえ無くす結果となったのである。
  氏政・氏照が天下人に背いて大戦を仕掛けたという意味では武士の冥利に尽きるが、たいした抵抗も見せられず敗退したことは、彼らにとって、生涯最大の悔いを残す結果だったことだろう。