福島 正則
ふくしま まさのり
1561-1624
享年64歳。
名称:市松、左衛門大夫、侍従、羽柴正則
居城:播磨竜野城→伊予湯月(湯築)城→
伊予府中城→尾張清洲城→
安芸広島城
■福島市兵衛正信の子と伝えられるが、
一説に星野成政の子で福島正光の
養子となったとするものがある。
その他、桶屋の伜(せがれ)であったな
ど出自には諸説がある。
母は豊臣秀吉の実母・大政所の妹で
叔母とする説がある。
母の縁によって幼少の頃より秀吉に
仕え、秀吉軍団では加藤清正や石田
三成などと同じく子飼衆であった。
秀吉から”市松”と呼ばれて寵愛され
た。
■1578年、秀吉の中国路経略に従軍し
、播磨三木城に篭る別所氏攻めで初
陣を果たした。
■その後、賤ヶ岳の戦いで七本槍に数え
られる軍功を挙げ、近江栗太郡2900
石、河内八上郡2036石、併せて5000
石余を拝領。
小牧・長久手の戦いにも参軍した。
■秀吉が関白に就任すると、従五位下左
衛門大夫に叙任され、隠遁した蜂須賀
小六正勝に代わって、1585年に播磨
竜野城主となる。
■九州平定戦では1200の手勢を率いて、
従軍。戦後、一連の合戦での軍功に
より、伊予湯月城主となり、11万3200
石を領する大名へと急成長する。
その後、伊予府中城に居城を移し、文
字通り秀吉軍団の中堅的な存在と
なる。
小田原征伐では、1800の手勢を率い
て従軍。伊豆韮山城攻めを勤めた。
朝鮮の役では手勢4800を率いて渡海
し、豊臣軍の主力として活躍した。
■1595年、”殺生関白”と悪評を得て、秀
吉への謀叛を企てたとして豊臣秀次が
断罪に処されると空白と成った所領へ
と入り、清洲城主となり、24万石を領し
た。
と同時に羽柴姓を与えられ、従四位下
侍従に叙任され、羽柴清洲侍従と呼ば
れるようになる。
■1600年、会津征伐に向う徳川家康に従
い、正則は奥州の地へと赴く。が、手薄
となった畿内で徳川家康討伐の兵を挙
げた石田三成らを討滅すべく、関東を
通って、清洲城へと向う。
遅れて清洲城に入った徳川家康の指
示に従い守りの堅い美濃大垣城に居
る西軍を叩かずに西上して佐和山城
や大坂城を占拠する作戦に出た。
これに驚いた大垣城の石田三成ら西
軍諸将は、急きょ篭城戦を放棄して、
関ヶ原で東軍を迎え討つ形をとった。
ここに関ヶ原の決戦が始まり、正則は、
先陣の誉れを得るべく西軍とにらみ
合う。
しかし、松平忠吉、井伊直政らの抜け
駆けで先陣の誉れを失うと正則は奮起
して目の前に布陣する西軍の主力部
隊・宇喜多秀家へと突進。
宇喜多軍との壮絶な戦いが繰り広げら
れた。
結局、西軍の小早川秀秋が東軍へと
寝返ったことで勝敗は決し、東軍の大
勝利に終る。
■戦後、軍功の褒賞として安芸一国と備
後の一部を拝領し、49万石余の大大
名へと大身を果たし、広島城を居城と
した。
大坂城に残る豊臣秀頼を討滅すべく、
大坂の陣が起こると、家康は豊臣家恩
顧の大名ということで正則や加藤嘉明
らは江戸城に押し込め、厳重な監視の
下に置かれた。
この頃から徳川方の正則に対する態
度が厳しくなり、武断派の筆頭でもある
正則を討滅しようとする意向が幕府内
に強く現れだした。
1619年、正則は台風で崩れた広島城
の石垣修築の許可を幕府に申請した
が、なかなか受理されない。
業を煮やした正則は、幕府に無断で広
島城の石垣修築工事を行ってしまう。
これに目を光らせた幕府は、幕府の取
り決めた規則に違反したとして正則を
厳罰に処した。
これにより、正則は50万石近い太守か
ら、一転して信濃川中島4万5000石に
移封となり、正則自身は高井野村に蟄
居の身となった。
武芸で立身出世を成した正則ではあっ
たが、最後は幕府に危険人物としての
印象を強く与えてしまう結果となり、
1624年7月13日、蟄居の地で不遇の
最後を遂げる。
享年64歳。