あんどう もりなり
1517?-1582
享年66?歳。
名称:範俊、定治、平左衛門尉、日向守、
伊賀守、竹巌道足
居城:美濃国北方城
■安藤守利の子。西美濃に勢力を張る
有力国人で、守就は西美濃三人衆の一人に
数えられた。
斎藤家の家臣として、道三、義龍、龍興と
三代に仕えた。龍興の無能振りを見て、
これを見限り、娘婿の竹中半兵衛と謀り、
稲葉山城奪取を行うなどして、主君を諫言した。
その後、信長の美濃侵攻に伴い、
これに内通し、1567年に信長が稲葉山城を
攻めるとこれに呼応して戦果を挙げた。
以後は織田軍の有力な武将の一人として各地を転戦した。
1580年、かつて美濃平定戦の頃に武田氏に
内通した嫌疑をかけられ、守就は領地を
没収され、武儀郡谷口村に蟄居を命じられた。
1582年、本能寺の変後、守就は一族郎党を
率いて旧領北方城を奪還し、領地回復を成した。
しかし、ここを領有していた一鉄との合戦に
発展し、一族もろとも敗死した。