おだ ひでのぶ

1580-1605 享年26歳。

■三法師、正三位中納言、三郎、岐阜中納言、洗礼名:ペトロ

織田信長の嫡孫。織田信忠の嫡子。

織田宗家の跡取りなれど、豊臣秀吉の傀儡とされ、

織田宗家を継ぐも、天下餅は譲られず。

豊臣秀吉麾下の武将として、天下泰平を迎える。

キリシタン大名でもある。

祖父・織田信長縁の地である岐阜城城主となる。

1582年天正10年、本能寺の変が起こる。

秀信は岐阜城にありて、前田玄以たちに保護されて、

清洲城へと非難した。

山崎合戦の後、清洲会議が開かれ、秀信は秀吉に

擁立されて、織田弾正忠家の家督を継ぐ。

わずか3歳であったが、近江国坂田郡に3万石を領した。

1584年天正12年、羽柴秀吉と織田信雄が対立すると、

秀信は安土城から坂本城へ移され、ついで京都へと

避難させられた。

同年11月に講話が成立すると、秀吉は、正式に信雄に

織田家の家督相続を認めた。秀信は再び坂本城へと移された。

1588年天正16年、9歳になった秀信は、岐阜城に入り、

織田三郎秀信と改名し、元服した。

1593年織田信長の五男で秀吉の養子となっていた豊臣秀勝が

病没した。これに伴い秀信はその遺領、美濃13万石と岐阜城

を引き継ぎ、岐阜城へ入った。

岐阜中納言と称された。

関ケ原合戦においては、西軍に属し、岐阜城を死守した。

福島正則ら東軍の先鋒部隊が岐阜城を包囲し、総攻撃を

かけた。難攻不落と謳われた岐阜城であったが、わずか一日で

落城した。

秀信は自刃して城とともに果てるつもりであったが、キリシタン

であったことから自殺することを躊躇した。さらに池田輝政の

必死の説得もあり、命永らえて、城を後にした。

東軍諸将の中には城主である秀信の斬首を望む声もあったが、

織田信長の嫡孫ということもあって、助命され、高野山へ

追放となった。

関ケ原合戦の際、秀信の母、妻、娘は大坂にて人質となっていたが、

岐阜城落城後は、六角家旧臣の和田孫太夫によって救出された。

しかし、夜陰に紛れて岐阜まで落ち延びることは不可能となったため、

和田は秀信の母と妻を刺殺し、首だけを送り届けた。

秀信の娘は近江で百姓に養われ、その後、六角義郷に嫁ぎ、六角氏郷

を産んでいる。