なんこうぼう てんかい

1536-1643 享年108歳。

■随風、院号:智楽院 

陸奥国にて、三浦氏の一族である蘆名氏の出自とされる。

龍興寺にて、随風と称して、出家した。

14歳の時に下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して、天台宗を学ぶ。

近江国にある比叡山延暦寺、円城寺、大和国の興福寺などに移り、

学問を深めた。

1571年元亀2年、織田信長が比叡山を焼き討ちにすると、天海は

厄災を逃れ、甲斐武田信玄の招聘に応じて赴く。

その後、会津の蘆名盛氏から招聘を受け、黒川城へ向かい、

稲荷堂に移住し、さらに上野国の長楽寺を経て、1588年天正16年

武蔵国の無量寿寺北院に移り、天海を名乗った。

その後、江戸崎不動院の住持も兼任した。

1590年小田原征伐の時、浅草寺の住職・忠豪とともに天海が

徳川家康の陣幕にいたとする記録がある。

1609年慶長14年、天海は権僧正となり、本格的に家康の

ブレーンとして活躍し始める。

1612年慶長17年、無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を

喜多院と改め、関東天台の本山とした。

1613年慶長18年、家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院

を再興した。大坂の陣勃発の原因となった方広寺鐘銘事件の

クレーム内容を立案したのも天海とされる。

1616年元和2年、家康は、自身が危篤になった時、自分への神号や

葬儀に関する遺言を天海に託した。天海は大僧正となり、葬儀

一切を取り仕切る役目を担う。

家康死後、家康への神号を吉田神道で祀る”明神”とした以心崇伝、

本多正純に対して、天海は山王一実神道で祀る”権現”を神号と

すべきと主張し、対立した。結局は豊国大明神の神号を贈られた

豊臣家が滅亡したことから、権現を神号として贈ることが決定

された。

天海は、その後も秀忠、家光に仕えて、徳川幕府の重要な

ブレーンとして、暗躍した。