おがさわら さだより
1550?-1625 享年76?歳。
信濃守護・小笠原長時の孫(曾孫との説もある)、または、長男・小笠原長隆の次男として生まれる。小笠原貞慶の甥にあたる。
1571年元亀2年3月、武田信玄が、遠江の高天神城を攻めると、徳川方の城主・小笠原長忠(信興)の元へ救援のため、小笠原長隆、貞慶兄弟が助けに向かう。其の時に「民部貞頼」の名が残っている。
1564年永禄7年、貞頼は同族の幡豆小笠原氏を頼って、三河国へ移住し、小笠原宗家の小笠原貞慶よりも先に徳川家康に臣従している。
1593年文禄2年、文禄の役から帰陣した貞頼に対して、家康は、「貞頼は小田原の陣以来数度の戦功にもかかわらず、いまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば、見つけ次第、取らすであろう」と証文を貞頼に与えている。
こうして、貞頼は噂に聞く南方諸島の探索のため、南海へと船出した。
この南海探検で、貞頼は、無人島3つを発見し、家康に報告。家康は天下人、豊臣秀吉に報告し、秀吉は、直々に貞頼へこれらの島の所領を安堵した。