いのうえ なりまさ

1516-1581 享年66歳。

■通称:」助十郎、源右衛門尉、和泉守

毛利家家臣・井上光兼の六男として生まれる。

1539年天文8年、毛利元就を烏帽子親として、元服する。偏諱の就をもらい、就正と名乗る。

1548年天文17年、山名理興が拠る神辺城への総攻撃に参軍。神辺合戦にて、就正は、城攻めにて負傷しながらも奮戦し、武功を立てた。毛利隆元より感状を与えられている。

1550年天文19年、就正の兄・井上元兼をはじめとする安芸井上一族30余名が毛利元就の命によって、粛清された。この粛清に就正は免れ、吉川元春預かりとなった。後に、毛利家n召還され、粛清された井上一派の井上元盛の旧領を相続した。

1551年天文20年には、安芸国頭崎城で平賀隆保との合戦に参軍し、活躍した。

1554年天文23年6月、安芸国佐伯郡吉和にて、合戦に参加した。

1569年永禄12年3月、吉川元春、小早川隆景の命によって、筑前国小倉津へ検使として派遣される。

1571年元亀2年、出雲国新山城の普請奉行を勤め、この功績により、1574年元亀4年、毛利輝元より、和泉守の受領名を与えられた。

1580年天正8年、嫡子・井上元勝が毛利輝元に従い、備中へ出陣したが、虎倉城攻撃途中、伊賀久隆の強襲を受け、討ち死にする。

就正は、悲痛の中、体調を崩し、翌年没している。